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撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり〜太宰治『待つ』について 第七回

 信じてさえいれば、“待つ”という行為には、希望だけが付き纏う。前回までで、“待つ”という行為に対して、そのような解釈をしてきた。では、小説『待つ』における少女の場合はどうであろうか。

私はぼんやりと座っています。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。胸が、どきどきする。考えただけでも、背中に冷水をかけられたように、ぞっとして、息が詰まる。けれどもやっぱり誰かを待っているのです。~『待つ』より

 はじめの方に書かれたこの一文を読む限り、ここからは希望というよりも、不安の方が強く感じられる。しかし、あれこれと思い悩むうちに変化をみせていく。

もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせているのだ。〜『待つ』より

 ここにおいて、“待つ”対象に対する思いは、不安をにじませながらも、一種の憧れへと転じていくかのようである。ここでもまた、“待つ”という行為に付き纏う希望の色が、強く描かれているのだ。
 また、私はある言葉を思い起こさずにはいられない。

撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
ヴェルレエヌ
〜『葉』より

 少女は“待つ”ことを通して、恍惚と不安を感じている。失笑を覚悟して述べるならば、それは撰ばれてあることに対するものではないだろうか。本作中においても、次のような箇所がある。

どなたか、ひょいと現われたら! という期待と、ああ、現われたら困る、どうしようという恐怖と、でも現われた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう、私の運がその時きまってしまうのだというような、あきらめに似た覚悟と、その他さまざまのけしからぬ空想などが、異様にからみ合って、胸が一ぱいになり窒息するほどくるしくなります。〜『待つ』より

 考えてみれば、“待つ”という行為は“待つ”対象から撰ばれるという側面を持つのではないか。撰ばれるという意味合いを持たなければ、“待つ”ことすら不可能なことではないだろうか。
 たとえ当ての無い何かを“待つ”にしても、そこにはやはり、その何かに撰ばれるのを“待つ”という意味合いが存在する。逆に、待っていなくても突然訪れる朗報や悪い報せには、先に恍惚も不安も感じている余裕すらないのだ。
 この作品において、少女は恍惚と不安を感じながらも、“誰か”を待っている。その“誰か”に撰ばれてあることに対して希望を抱いていると私は考えるのである。
 では、その“誰か”の正体とは? ようやく次回より、その点について考察していきたい。

#コラム #太宰治

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