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3つのキーワード〜太宰治『待つ』について 第八回

“少女は誰を待っていたのか?”

 はじめ、この命題に対する私の“主観的解釈”を“救い”であるとした。しかし、これでは佐古氏のいう“「人格」との邂逅”が説明できない。寧ろ、その“誰か”との出会いこそが、少女にとっての“救い”であるとした方がしっくりくる。
 前回述べたように、少女は恍惚と不安を感じながらも、“誰か”を待っている。その“誰か”に撰ばれてあることに対して希望を抱いている。
 ここでの不安とは、もちろん「来ないかもしれない」というものではない。来ることを固く信じているからである。ここにおいて再度確認をしておきたいが、これは「来たらどうしよう」というような思いに近いもの。すなわち、出会ってからの不安であるのだ。
 では、彼女にとっては“救い”である、その“誰か”との出会いに不安を感じるとは、一体どういうことなのであろうか。
 ここでもう一度、この少女の行動を本作より引用してみる。

省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。
<中略>
家にいて、母と二人きりで黙って縫物をしていると、一ばん楽な気持でした。けれども、いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひどく緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも落ちつかなくなりました。身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい気持なのです。私は、私の今までの生活に、自信を失ってしまったのです。~『待つ』より

私がここで着目したキーワードは、下記の3つである。
①戦争がはじまったにも関わらず、自分だけ家でぼんやりしていることに対する罪悪感
②誰かの役に立ちたいという使命感
③いままでの生活に自信を無くしてしまったという喪失感

上記に挙げた3つの感情から、少女は省線の小さな駅に毎日“誰か”を迎えに行くという行動を取った、と私は考える。
 では次回より、これら3つのキーワードについて考察してくこととしたい。

参考文献:佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』

#コラム #太宰治

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