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待つ身には、希望が付き纏う。待たせる身には、絶望が付き纏う〜太宰治『待つ』について 第六回

 さて、呑気に将棋を指しているところを、檀一雄氏に怒鳴りつけられた太宰さん。場が落ち着きを取り戻した頃になって呟かれた、あのセリフ。

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

 考えようによっては、確かに待たせる身も辛い。待たせているということに対する焦燥感。これは、あの時の太宰さん自身も感じていたことであるに違いない。
 しかも、もしかしたら金を借りることができないかもしれないという不安感。これはもう、絶望といってもいいだろう。

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみればくだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい、やんぬる哉。
~『走れメロス』より

 そう、これは絶望。ここに書かれてあるようなことが、実際に太宰さんの胸の内に宿ったのであろう。待たせる身には、絶望が付き纏う。そう感じたのかもしれない。
 一方で、“待つ”身はどうか。信じて待つ分には、それほどの苦は無い。たとえどんなに待たされようとも、信じてさえいれば、そこには希望だけが存在していると考えられなくはない。
 実際のところ、檀氏のために太宰さんは女を氏のところに遣っている。それも太宰さんなりの思い遣りだと、檀氏自身が書いている。
 つまりは“待つ”という行為に及んだ以上、それ以上は何もすることは無く、ただ信じることが希望に繋がるのである。ゆえに、待つ身には、希望だけが付き纏う。そして待たせる身には、絶望が付き纏う。
 だからこそ“待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね”という問いが、あの場で為されたのではないだろうか。
 ここで、もう一度考えたいのは、信じてさえいれば“待つ”という行為には希望だけが付き纏うという点である。小説『待つ』における、あの少女の心も希望に満ちていたはず。
 次回より、また小説『待つ』に立ち返り、その点を重ね合わせながら考察していきたい。

引用・参考文献
檀一雄『小説 太宰治』

#コラム #太宰治

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