見出し画像

私が私であるという証拠ってなんだろという話。

のっけから中二病のようなタイトルですが。

実は、私用のパソコンは Windows なのだけれど、最近になって顔認証を使い始めてみた。正式名称は、「Windows Hello」とのこと。Windows 10 から標準搭載されるようになった機能。

なんとなく登録してみたけれど、便利だった。いや、自分は、それほどパスワード入力することを手間だと思っていない人間なので、手放しで便利というのは違う気がする。でもなんだか「おおっ」と心が動く。何故だろう。もしかしたら「受け入れてくれてる」感が心地良いのかもしれない。

PCがロック画面になった時、ふっと画面の前に自分の顔を見せてみる。すると、内蔵カメラが動作していると思われるランプが赤く点滅し、画面上部ににっこりとした可愛い顔のアイコンみたいなのが現れる。無事に認識されると「おかえりなさい!●●さん」と呼んでもらえる。そして、ロック画面が自動で解除される。

果たして、年を重ねていつしかもうアラウンドフォーティという世界に足を突っ込み始めたオッサンが、こんなふうに笑顔で優しく受け入れてもらえるようなことってあるだろうか。我が家は、家族仲は良いほうだと思うが、朝起きて挨拶するときには妻や子供は不機嫌だし、私一人が買い物に行って帰宅しても誰も玄関まで出迎えてくれることはほぼ無い。「あ、お帰りー」と顔も見ずに言われるだけだ。

上にも書いたが、私は、パスワードを憶えるのは苦ではないし、それをデバイスやインタフェースごとに毎回違う内容を入れなおすという作業は、そんなに面倒くさいとは思っていない。

でも、使っている iPhone も指紋認証を利用している。正確には、「Touch ID」というのかな。それを利用する理由も、恐らく、Windows Hello を登録したものと同じなのかもしれない。受け入れてくれる。私は私なんだと、この無機質的に見える機械は認識してくれている。そう思うと何だか嬉しい。だから、お風呂上りとか、今の時期は外の寒い中から帰宅した後など、しわしわだったり乾燥した指では、iPhone が知っている「私」ではなくなる。画面に表示された、私を拒否するという意味の「やり直す」の文字。何度も試行してその文字が表示されたかと思うと、「パスコードを入力 Touch ID をオンにするにはパスコードが必要です」と諦められてしまう。非常に悲しい気持ちになる。時に「あっ・・」って声が漏れたりもする。

この先の未来、技術がどんどん進歩して、認証技術も極限まで向上するのだろうと思う。それはつまり認証精度が上がり、他人受入率や本人拒否率が限りなく低くなり、「私」しかその認証処理を突破できなくなる。
けれど、そんな日がもし来たとして、もし「私」でも認証できなくなったとしたら、どうしよう。不安になる。ここまでハイテクになって機械が知能を持ち、人間を正しく認識できる世の中になった時、もしそこで「あなたは本人ではありません」と拒否されたら・・。すごく寂しくなりそうだ。

人間を構成する細胞は、日々分裂を繰り返し、再生している。すべての細胞が生まれ変わるのに数年かかる。だから数年後は全く別の人間になる」なんてどこかで聞いたことがあるが、仮にすべての細胞が入れ替わったとしても「私」が「私」というのは何だか不思議だ。
それを支えているのは、「記憶」なのかな。昨日と今日の記憶が連続的につながっていくことで、昨日の「私」から今日の「私」に思考がバトンタッチされて、その日の人生を「私」として生きていく。やっぱり何だか不思議だ。「我思う、ゆえに我あり」と昔の誰かが言ったように、考えることこそが、自分たらしめるのかな。

と、こんなことを考えていると楽しいけれど堂々巡りになりそうなのでこの辺で切り上げます。

全然関係ないけれど、このタイトル、尾崎豊が歌っていた、とある歌の曲名と似ている。大学時代に、好きでよくこの歌をカラオケで歌っていたのを思い出した。名曲だ。この歌に限らず、彼の曲を聴くと胸の奥がジワッと熱くなるのを感じる。ああ、「私」は生きてるんだな、と実感する。

僕が僕であるために

ー尾崎豊


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?