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彼のこと

「えっ、麻衣子さん、彼氏いないの?はいはいはーい!じゃ、俺、立候補する!今日から俺が彼氏ね!」

そう言って彼は、私の手をさっ、とさらうと、さりげなく5本の指を絡めてきた。

ひんやりとした彼の手の感触を、なぜか心地いいな、とぼんやり思いながらも、私は状況を飲み込めずに、ぽかん、とした顔をしていたらしい。

「おい、孝之、麻衣子さん困ってるじゃないか。おまえ、馴れ馴れしいぞ!ってか、まいこさんに気安く触るんじゃない!」

正面に座っていた坂本さんが、ちょっと拗ねた様な口調でそう言うと、私たちの手を掴み、指1本1本をこじ開ける様にして、無理やりはがす。

「えっ、まさか、坂本さんも、麻衣子さんねらってんすか!いや、俺が先だからー!」

そう言うと彼は、再び左手をぐいと伸ばし、私の手を握ろうとする。
それをなんとか阻止しようと、両手で阻む坂本さん。

なんだ、この人たちは・・・。

お酒の勢いもあって、笑いながらもエスカレートしていく男たちのじゃれあいを、私は頭の中に「???」マークを浮かべなら、じっと見つめる。

「ちょっと、あんたたち、いい加減にしなさいよ。大人しっとりな誕生日会が台無しじゃないの!ったく・・・」

里佳子が、いつものように一喝する。
2人の男は納得のいかない6歳の男子のような顔つきで、バツが悪そうに自分たちのグラスに手を伸ばした。

やれやれ。
この歳になって、年下の男の子に手を握られるとは・・・。
今頃になって、ちょっと恥ずかしくなり、赤くなっている顔を悟られまいと、「ちょっとお手洗にいってくるね」と席を立った。

そういえば私もだいぶ飲んでるから、すでに赤い顔してるんだった。

そんなことを思いながら、40過ぎでも赤くなる自分がちょっとかわいらしくなり、くすりと、笑顔がこぼれる。

誰かに手を握られたのなんて、何年ぶりだろうか。
なぜか、嫌な感じがしなかったな、と彼の手の感触を思い出しながら、あれ、と思う。
有無を言わせない強引な彼の口調とは裏腹に、彼の手のひらは、優しく包み込む様に、ぴったりと私のそれに重なっていた。
お酒が入り、熱った体には彼のひんやりした手の温度が、ちょうどよくも感じた。
そういえば、彼はいくつなんだろうか。私より年下だと思ってたけれど、正確に年齢を聞いたことはなかった。

「麻衣子さん」

聞き慣れた声に、はっと前を見ると、彼が困った様な笑顔で、私を見つめていた。
トイレを出たところで、彼とばったり鉢合わせする。

「あの・・・」

さっきとはうってかわって、歯切れの悪い感じで、一瞬目を伏せた後、ゆっくりと視線を私に合わせる。

その目は、驚くほど真摯な光を宿し、私は一瞬、どきり、とする。
彼の顔がみるみる近づき、私の耳元にそっと唇を寄せて、耳たぶにそれが擦れる。

「さっき言ったこと、本気だから。」

彼の熱い吐息と、ほのかな香水の香り。
思ったより低くて、まとわりつく彼の声が、耳の奥にずん、と響く。

ほんの数秒の出来事だっただろう。
でも、私の中では時が止まったような気がした。

この感じ、知ってる。
この声、この匂い、知ってる。

頭の中でぐるぐると何かが回り始める。
忘れていた大切なものをなんとか思い出そうとする様に、頭の中で散らばったパズルを一生懸命当て嵌める。

「麻衣子さんの気持ちが、知りたい」

顔をあげた彼は、じっと私を見つめ、切なそうに目を細める。

あ。
そうだ。
「彼」の眼差しと似ているんだ。
5年前、一人私を残して、この世を去ってしまった「彼」が、最後に私を見つめて言ったセリフを思い出す。

「ごめん、麻衣子。俺、本気だから」

彼はそう言って、寂しそうに笑った。
次の瞬間、彼の体がぐらり、と後ろに傾き、私を見つめながら、ゆっくりとベランダの手すりから滑り落ちていく。
記憶の奥底に封印していたその一シーンが、まるで映画のスローモーションのように、一コマ一コマ、鮮明に脳裏に蘇る。

「麻衣子さん、麻衣子さん?大丈夫?」

肩が震えだし、私の呼吸がだんだんと荒くなる。
彼が私の異変に気づき、心配して肩に手をかけた。

その手を拒絶するかの様に、ビクッと私の体は大きく震え、ぎゅっと目をつぶる。

大丈夫、大丈夫。私は大丈夫。だいじょうぶ、ダイジョウブ、だいじょうぶ・・・

その時、何かがふわっと私を包み込んだ。
突然の感覚に、何が起きたのか理解できないまま、私はその中でカタカタと小さく震えだす。

「大丈夫。大丈夫だから。だいじょうぶ。」

私の心の声に、彼の声が重なる。もしかしたら、ぶつぶつとつぶやいていたのかもしれない。
彼の声と、私の声が重なり、まるでそれが魔法の呪文であるかのように、私の体の震えは徐々におさまっていく。

気がつくと、私は彼の腕の中にすっぽりとおさまっていた。
ぎゅっと抱きしめるでもなく、ただふわり、と私を守る様に覆われた彼の体から、どく、どく、どく、という静かな鼓動が聞こえてくる。

大丈夫、どく、どく、どく。
だいじょうぶ、どく、どく、どく。

なんて心地いい響きなんだろう。
私はそこが、カフェバーのトイレの前であることも忘れ、彼の作り出す魔法のような空間で、ただただ安らぎを感じていた。

ぎぃ、とトイレのドアが空き、誰かがでてくる気配がした。
その音ではっと我に返り、慌てて両腕で彼の胸を押し退け、体を引き離す。
大学生らしい女の子が、ちら、と私たちを見ると、何事もなかったの様にすーっと席に向かって歩いていく。

「・・・ごめん」

最初に言葉を発したのは、私の方だった。
この「ごめん」は、何に対する謝罪なんだろうか。
こんな醜態を見せてしまって、ごめん、なのか、あなたの腕の中で図々しく心地よさを味わってしまってごめん、なのか、自分でもよくわからなかった。

「・・・ちょっと、待ってて」

彼はそう言うと、一瞬、私の前から姿を消し、私のコートとバックを持って戻ってきた。

「送っていくよ」

そう言って、さっきのように私の手をぐい、と掴み、指を絡める。
冷たかった彼の手は、いつのまにかほんわりとあたたかく感じられて、その感触に、私の心臓がどくどく、と大きな音をたてて踊り出した。

「手、冷たいね」

そう言うと、彼は私の右手を両手で包み込み、はぁーっと吐息をかけて、優しく揉みしだく。

彼の作り出す穏やかな波にのまれるように、ただわたしはその場に立ち尽くし、されるがままになっていた。

私にコートを羽織らせると、彼はまた私の手を握り、店の外へと歩き出した。
彼の手のあたたかな感触と、ゴツゴツした骨張った感触の両方を味わいながら、こんな始まりも、いいかもしれない、と、私の中で何かがつぶやいた。



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