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それは選び抜かれた希望ではなく、ただ残されただけの希望/『生きてるだけで、愛』感想

芥川賞作家、本谷有希子の傑作小説が約10年の時を経て実写化された。

本谷有希子のすべての小説を読破し、舞台も何本も観ている本谷フリークの僕にとっても当時から特別な作品のひとつだった『生きてるだけで、愛』。

実写映画の主演は趣里、菅田将暉。

<あらすじ>

同棲して3年になる寧子と津奈木。
躁鬱と過眠症の影響で職にもつけない寧子は眠ってばかり。メンタルが不安定で人並みの生活すらまともに送れない寧子と、それを受容していた津奈木だったが、寧子が津奈木の元カノと出会い、半ば強制的にアルバイトを始めることで物語は動き出す。

バイト先で家族のように接してくれる優しい人たちに触れ合い、光が見え始める寧子と、ゴシップ誌の仕事に忙殺されて徐々に余裕がなくなる津奈木。2人の結末は。

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全編通してかなり鬱屈とした内容である。特に序盤から中盤にかけてはかなり重苦しい。それはひとえに趣里の好演ゆえでもあり、寧子としての逃れられない生きづらさをその名の通り体当たりで演じている。
そしてそれを受け止めながらも壊れかけていく菅田将暉の抑えた演技も素晴らしかった。

本谷有希子の初期作品は小説でも舞台でも頭のおかしな女が周囲を翻弄して仮初めの均衡をぶっ壊していく構成が多い。特にこの寧子は本谷節の象徴たるキャラクターである。

原作ではもう少し軽やかさがあった印象だが、映画は観ているこちらまで疲弊し、苛立ちすら覚える強烈さを放っている。

メンヘラなんて言葉はもう死語に近付きつつあるのかもしれない。

寧子のような女性や、津奈木との関係性は、現代では決して珍しくない。世の中への生きづらさと精神的な病で壊れてゆく人と、一緒に壊れたり依存したり疲弊していく人たちの物語は今日もどこかで繰り広げられている。

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「自分の中では、ある一瞬でいいから、すごく透明なものが小説に入り込んでいるといいな、と思っているんです。すごく澄んでいて哀しくてキレイとか、哀しさが澄んでいてキレイとか」

本谷有希子はかつてこのようなことを語っていた。

本作でもそれは伝わってくる。目を背けたくなるような、動かし難い圧倒的なまでの日常生活の重さを前に、奇跡みたいに一瞬だけ紛れ込むモノ。純粋さの果てにあるようなモノ。

それの名前を希望や光と言うには安易過ぎるのだけれど、誰しもみんなその得体の知れない救いのようなモノにすがり、期待して、生きている。

その光は、決して選び抜かれた希望ではなく、ただ残されただけの希望だったとしても、シチュエーション的には誰かを生かすことに成功する。映画『そこのみにて光り輝く』を観たときにも思ったことだ。

「わたしは、わたしとは別れられないんだよね。いいなあ津奈木、わたしと別れられて、いいなあ」

クライマックスの寧子の叫びは切実だ。わずかな淀みすらない寧子の想いも、津奈木が答える言葉も美しい。

大学時代に付き合ったメンヘラの元カノを少しだけ思い出した。リストカットしながら電話をかけてくるあの子のことを、オーバードーズで自殺未遂していたあの子のことを。
ちょっとは分かってあげたかったよ。でもできなかったし、今になったって正解なんてわからない。

本谷有希子の作品は生々しい。その生々しさが好きだ。生々しいってどういうことか。前に人に聞かれたことがある。

「なんともいえない心当たりがあるってこと」

僕自身はそんなふうに思っている。


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