門脇麦の瞳から反射した景色
下北沢の本多劇場で門脇麦が主演を務める芝居を観た。
門脇麦は細くてしなやかな筋肉を纏って、板の上に凛と咲いていた。視線の先は捉えようがなく、瞳はずっと遠くの虚空を映したように他人行儀だった。
遠ざかる時間の波に記憶が溺れないよう僕は観劇後もその姿を繰り返し反芻した。
何度も挫折し達観し、まるでそれは自分の内面と向き合うのに慣れ尽くした人間の瞳だった。
僕は彼女のわかりやすくない表情や芯の通った瞳が好きで、身近にも孤高にも映る振り子のような儚い存在感に魅了される。
役柄以上の何かがこぼれ落ちる瞬間はどうしたってあると思う。それこそ生身の人間が役を演じる意味であり、役者が担う意義だろう。
ひとの頭をわずか4つ程度挟んだ先に確実に存在する憧憬の女優。ひとがひとに憧れるというのはよく考えたら不思議な感情である。考えれば考えるほど彼女の輪郭はグニャグニャと変形していった。
演劇は幕が上がれば舞台上で繰り広げられる世界がすべてになる。
そんな暗黙の約束事や共犯意識が美しい。
ライブであればアーティストがオーディエンスを煽るなどして一体感を持つことは普通だし、お笑いでも漫才やトークライブであれば観客の反応によって熱量は如実に変化する。
演劇はこちら側なんてものは存在しない。圧倒的な没入感のなかで僕らは暗闇に染まり、黙って消え失せる。別の世界線に集中力を預け、無責任でいられる時間は尊い。
舞台に立つ表現者には敵わないなといつも思う。
役者、ミュージシャン、お笑い芸人。人気や知名度に関係なく畏敬の念を抱く。僕はいつでも傍観者になるだけだ。芝居も音楽もお笑いも好きなのに、誘われることも過去にはあったのに、ステージに立つことを選べなかった。趣味程度でやる技術も度胸も持てなかった。
表舞台に立つということは、責任や期待を一身に受け止める覚悟の象徴である。そこから逃げないことを選んだ人たちが、どこまでも眩しい。僕のような人間ほど自意識過剰で、舞台に上がる人こそ自意識から飛び出せている。
過剰な自意識に染まった真っ暗な部屋の扉を開けることができた人こそ、あのスポットライトを浴びるにふさわしい。
サポートが溜まったらあたらしいテレビ買います