別れと出逢い
久しぶりに行った、”リーチ麻雀NG”でマツザキさんと話した事。
前話でも書いたが、専門学校に行くこと。
そして、その会話の中で言われた事があった。
「金で苦労しても、決して卑屈になってはダメだ。金で友達を裏切るなよ」
と言われた。正直なところ
”なんでこんな事を言うのだろ”
と思ったが、今思えば励ましの言葉だったのかも知れない。そして、
「麻雀は、ほどほどになっ!!元気で学校に行け!!」と笑って言われた。
実は、これがマツザキさんと逢った最後の日となった。
麻雀だけでなく、歌舞伎町や大人の話などいろいろ聞かせてくれた。
麻雀を教えてくれた、初めての人でもあった。
数カ月だけだったが、ワシにとっては物凄く濃い期間だった。
4月になり、専門学校に通うようになった。
理系の学校で、卒業後はそれを生かした仕事をしたいと考えていた。
中学の頃は、理科Ⅰ分野(オームの法則など電気回路など)は好きだった。
小学校の卒業文集では、船の設計をする仕事がしたいなどと書いていた。
これは、当時流行っていたアニメの影響だ。
船と言っても海ではなく、宇宙を飛んでいくアレだ
子供時代の戯言のようなものだった。
専門学校に行くようになって、電機メーカーで働ければなぁ~と
漠然とした考えを持つようになった。
専門学校のクラスメイトは、様々な人がおり年齢はバラバラ。
高校からそのまま来た人。
大学を目指していたり、一度社会に出ていたりした人など・・・
高校からそのままの人と、二浪経験者が多かった気がする。
GW明けになると、よく話をするようなグループが出来てくる。
同じ年の人と、二浪組と当時27歳だった人など数人のグループに居た。
27歳の人は、2番目の長老だったが気さくな方だった。
朝夕は新聞配達をして、配達所の古いアパートに住んでいた。
ワシらは、”一刻館”と言ってたまに遊びに行き麻雀をするようになった。
麻雀牌はワシが持参して(その後常備)ジャラジャラ楽しくやっていた。
正直、麻雀のレベルは・・・・・であった。
お気持ちを付けたいというので、10円でやるようになる。
ワシは負けなかった。ただ勝ち過ぎないように調整はしていた。
楽しい時間とするため、適度に振込みなどもしていた。
手摘みなので、ちょっとだけ牌を固めてみたりもした。
そんなに上手くないけど・笑
まさか、専門学校にきてまた麻雀するとは思ってもいなかったが、
フリー麻雀とは違い、完全エンジョイ麻雀というのも楽しかった。
勉強は真面目にしていたためか、成績は良かった。
バイトせずに身体に負荷がかからないようにしていたせいもあるかも。
だが、この頃から親の様子が・・・・・
夏休みになり、バイトを始めた。少しでも・・・・と思っての事。
観光バス会社でのバイトだった。バスガイドではなく、車掌さんのバイト。
会社では、ボーイさんと呼ばれ観光案内などはせずに、運転手の補助業務。
補助業務と言えば聞こえはいいが、要は横に座っているのがメイン。
詳しくは知らないが、運転手1人だけではダメなのが理由のようだ。
バスを駐車場に入れる際に、バックオーライの笛、乗降時の挨拶や、
回送時のバス内簡易清掃なども仕事だった。
貸切運行なので、お客様によって車内の雰囲気が物凄く変わる。
某M大学のテニスサークルは、東京から軽井沢までお祭り状態だった。
一緒に飲みましょうと、酒を勧めてくるくらいのお祭り状態・汗
”大学生ってこうなの?”と思って少し幻滅してしまうくらいだった。
有名な大学生なんですけどね・汗
公認会計士団体は、同じ軽井沢まででも物凄く静かでこっちが緊張してた。
そして、お気持ちが凄かった。日当より多いお気持ちがポチ袋に・驚
運転手からは、「貰っていいんだぞ!!お気持ちだからな」
このバイトの日当は5300円だった。(時間給では無い。残業代別途有)
当時、上信越道が未開通だったので軽井沢までは高崎から国道18号を走る。
夏場は渋滞が凄く時間がかかる。そんな時、横川ドライブインがオアシス。
昼食会場なのだが、バス添乗員はお客を連れて来たお礼みたいで、
別室で食事をご馳走になれるのだ。
食事はもちろんコレ
他バス会社の乗務員がたくさん居た。
かわいいガイドさんたちもね・笑
当時、このドライブインは物凄く利用者が多くて混雑が凄かったのだ。
帰りには、野沢菜漬けのお土産まで頂けた。
大変な時もあったが、とても楽しいバイトだった。
やがて夏休みが終わるが、ぷくぷく家で問題が・・・・(続く)
ぷくぷく
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