見出し画像

【哲学対話】いまの私が思う魅力〝3選〟

●はじめに

こんにちは、ふうねです。

普段は年間200冊本を読む読書好き 兼
選択子なし夫婦(暫定)の20代として、
色んなnoteを書いています。

そんな私が最近とっても心惹かれているのが
【哲学対話】です。


哲学対話とは
「身近な問について考えたい!」と思う
人達が集まり、お互いの意見や経験を聞き、
そこから更に掘り下げていって
みんなで問の答えに近づいて行こう!という
取り組みのこと。

詳細は下記の通りです。

自由な空間で、平等・対等な人々が
人が生きるなかで出会うさまざまな問いを
人々と言葉を交わしながら、
ゆっくり・じっくり考えることによって
自分の世界の見方を深くしていくこと

(書籍「ゼロからはじめる哲学対話」より)


もともと、「水中の哲学者たち」という
すごく読みやすい哲学エッセイから
哲学対話に対する興味をもち、

今では、実際に自分で企画して
zoomで哲学対話を週一ほどのペースで
行っています。


みんなで考える “テーマ” や “問い” は様々。

「幸せ」について
「言葉」について
「生まれることは幸せか?」
「差別」について

など、普段当たり前に使っている言葉や
身の回りのできごとについて、
改めて考えていきます。


そんな哲学対話ですが
「何がそんなにいいん?」と思う方も
いらっしゃるかもしれません。

そして何より、すごく良い試みだと思うから
私が良さを伝えたい!っていうことで、
今回は今まで5回の対話に参加した私が思う
“哲学対話の魅力”について 3つ取り上げ
noteを書いてみたいと思います。

あくまでも、今の私が思う魅力なので
きっとこれからも「ここも素敵!」と思える
魅力が出てくるとは思いますが、
ひとまず今の気持ちを書き残しておきます。


🪞“安全地帯”で話す気楽さ

まず1つ目の魅力です。
哲学対話の場は「対話したい!」と思った方が
集まっている場所。

そのため、みんなコミュニケーションを前提として、自分が話すのはもちろんですが、「他の人の言葉をしっかり聞くぞ!」という受け入れ体制も整えて参加してくださいます。

(私たちが使用しているルールにも
「しっかり聞く」という文言を入れています)


私たちが普段行っているコミュニケーションって
結構 無防備で、誰かに近付こうとすると
仲良くなれたりプラスの方向に向かう可能性もあれば、拒まれたりマイナスの方向に行ってしまう可能性も 50% - 50% 的に孕んでいる気がしています。

だからこそ、
「こう思うけど、口に出すべきことかな?」
「こうしたいけど、迷惑じゃないかな?」
とか、思い悩んだりすることも多い。

確かに、誰かに迷惑をかけたり
人を傷つけたりする場合は、
自分の頭で気付いて踏みとどまるべきだと思う。

でも、話してみたら相手にとってもプラスの
意味を持つ会話になったりすることもあるから
そういう結果になるなら、
遠慮したり悩んだ末に何も言わないのは
勿体ないとも思っちゃうのです。

それらを含めてコミュニケーションって
一概に言えないから難しいのですが、
哲学対話の場では別。

先述した通り、みんなが「話すぞ〜!」と
集まってくれているので、
ここでは何を話しても一旦受け入れてもらえるし
普段は変人扱いされるようなユニークな視点は
むしろ煮詰まった対話に動きをつけてくれる
ものとして、重宝されます。

そして、綺麗にまとまった言葉じゃなくても
大丈夫だし、無理に話さなくても大丈夫。

普段のコミュニケーションが
裸に槍1本で草原に立っているイメージだとしたら、哲学対話の中で繰り広げられるコミュニケーションは 宇宙服に守られた安全なイメージが私の中にはあります。


🪞知らない自分がコンニチハ

哲学対話の場は、他者との対話の機会であると共に、自分と心の内面で対話する場でもあるなぁと感じています。

対話の流れに対して、自分の中の言葉がある程度形になったところで手を挙げる。
発言権が私に回ってきて、話し始める。

すると、今まで自分の中で形になっていた言葉たちだけでなく、それらに引きずられるようにして思いがけない言葉が続いていくことがあります。

脳を通さずに心が直接話してるみたいな感じ。

「あれ?私そんなこと思っていたんだ…」
と自分でも感じながら口を動かす時、知らなかった自分の欠片が見えた気がしてドキドキするし、なんだかワクッともする。

これからもきっと、新しい自分と沢山出会える場所になりそうな予感がしています。


🪞シンプルに会話力が上がる

はい、これは本当にシンプル。
会話力、というよりも会話のための体力?という感じでしょうか。


会話って「聞く」と「話す」に
分かれると思うのですが、

哲学対話となると前の人の話したことを
更に展開させたり、
流れを汲んだりする場面があるため
「聞く」「話す」に「要約する」という
プロセスが加わるなぁ、と最近思いました。

普段の会話ではキャッチボールのイメージで
お互い決められたターンを全うする感じがあるのですが、哲学対話はバトン渡しの練習みたいにちょっと被るところがある感覚なのです。

もちろん、自分はこう思います!
というキャッチボール形式でも、尊い意見だし
発言者は発言することでより思考の輪郭をハッキリさせられ、聴いている人も色んな意見に触れられ、対話は活性化します。


バトン渡しのイメージなのは、
さらに一歩踏み込んで、先程の話はこういう意味で捉えたけど そうなると〇〇は▲▲となりますよね〜(更に自論を展開etc)
という場合。

これが私にとっては中々難しく、新鮮。
普段 使わない部分の脳を使うのか、対話中は聞いている時も話す時もずっと頭がフル回転している感じがします。

勿論、追いつけなくなるときもありますが
そういう時は追いつけるまで黙っていてOK。

少しずつこうやって対話に慣れていくことで
普段の会話でも、伝わらない場面でも諦めずに
相手と向き合おうとする体力がついた気がします。

●おわりに

今回は、今の私が感じる
哲学対話の魅力を3つ お伝えしました。

今回のnoteで、少しでも
「哲学対話面白そうかも!」と思って貰える
きっかけになれば嬉しいです。

これからも哲学対話を通して
「自分」「社会」「他者」について考え、
思いついた時にnoteに残して行けたら
と思います✻

最後まで読んでくださり
ありがとうございました𓂃𓈒𓏸

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?