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012 窓辺で本を-西瓜糖の日々-

何年か前、図書館で仕事をしていたことがあって、そこでさまざまな人に出会いました。
本を読むのが好きで定期的に来る人、子どものために絵本を借りに来る人、なにか知りたいことがあって来る人。そのほかいろいろ。

私に話しかけてくれる人は、たいてい何かを知りたい人でした。
あの映画の原作はありますか?ええと、作者はわかりません。とか。
血液型の歴史を知りたいのだけど、どうやって調べたら良いですか。とか。
どうしてこんな道徳的に良くない本を置いているのですか。とか。
二歳の子にどんな本を読んであげたらよいですか。とか。
どうして図書館は飲食禁止なのですか。とか。

毎日、たくさんの質問がきました。
私はその都度、誠実に正確に答えようと努めました。
中には答えのないもの、答えるのが難しい質問もありました。
特に印象的だった質問があります。

それは、「なぜ、人は本を読むのですか。」
という質問です。

私は少し考えて、質問を変えてもらうことにしました。
なぜ、人は本を読むのか。これは私にはわかりかねます。人によって、または同じ人でも読む時によって理由は異なるからです。なので、私の場合の「本を読む理由」でもよろしいでしょうか。

初老の男性は承諾してくれました。
私はこう答えました。

その場所に行ってみたいからです。
本の中の世界、作者の心を通して見た世界、あるいは作者の頭の中の世界。
どこかにある世界・あるいは時間、どこかにあった世界・あるいは時間、どこにもない世界・あるいは時間。
そういうところに行ってみたいんです。

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もう何度も訪れているところがあります。

私はその世界が好きで、もし現実にあるとしたら、実際に行って見たい世界です。
それは、リチャード・ブローティガンさんの『西瓜糖の日々』という話の中に出てくる、アイデスのある西瓜糖の世界です。

アイデスとは何か。
よくわかりません。
正確には、なんとなくはわかるのですが、上手に説明ができません。
本文では、「とても美し」くて「眼を閉じてもアイデスは見えるし、手で触れることだってできる」ようです。そして「どこか脆いような、微妙な感じの平衡が保たれて」います。
大概のモノが松と西瓜糖と石でできていて、言葉でさえ西瓜糖のようです。
でも、彼らが西瓜糖を食べている場面はありません。
訳者の藤本和子さんは「西瓜糖は甘いだろうが、けっしてそれは濃厚な甘さではないだろう。(中略)おそらくそういう場所なのだ。過度な感じというのがなくて、屈折の少ない世界」とおっしゃっています。

気になる人は西瓜糖の世界にぜひ行ってみてください。
きっと、読む人によって解釈も変わるでしょう。

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『西瓜糖の日々』は三編にわかれていて、その中に小さな章がたくさん入っています。
どの章もすばらしいのですが、私は「わたしの名前」という章が好きです。
主人公は名前を持ちません。
「たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。-誰かがあなたに質問をしたのだけど、あなたはなんと答えたらよいかわからなかった。
それがわたしの名前だ」
この文章が好きです。

また、「橋に明かりを灯すこと」という章も好きです。
橋のランタンに灯をつける仕事をしているチャック爺さんが出てきます。

この西瓜糖の世界には、別の世界も存在します。
「忘れられた世界」というものです。きちんと入口があって、そこの門には「迷うかもしれぬ。注意すべし」という札がかかっています。
忘れられた世界に行く人もいますが、ほとんどの人は行きません。
忘れられた世界には忘れられたものが落ちていて、主人公はそれを醜いと感じますが、きれいだと感じて集めている人もいます。

この世界は、たくさん説明してあるようで、説明していません。
読者の想像力に任せているのです。
私はそういう話が好きです。
本の中の言葉はずっと同じはずなのに、遊びに行く度に少しずつ変わるのがおもしろいからです。

またふと行きたくなった時に、本を開いてみようと思います。
その時に「西瓜糖の世界」はどんな風に見えるのでしょうか。
「アイデス」とは?「忘れられた世界」とは?名前を持たない主人公とは?美しく獰猛な虎たちとは?

答えはその時々で変わります。
「わたしが到着する前に、アイデスは変化した。アイデスというのはどういうところだ。たえず変化している。だから素敵なんだ。」

素敵ですね。

長文になってしまいましたが、今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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