チクる

【道徳観】 チクる勇気

 皆さんは「チクる」という言葉を一度は聞いた事があるだろう。この言葉を聞いて、殆どの人はあまり良い気持ちをしなかったり、負い目を感じたりするのではないだろうか。
 私は、今までの人生の中でこの「チクる」という行為を多々してきた。それらの場面は様々で、一番ひどい時には、大学で同じプロジェクトをしていたメンバー全員を再履修にした事もある(笑)。これに関しては、プロジェクトの全てを私任せにしておきながら、最終的には自分達も一緒に作業したような顔をしており、いわば『人の褌(ふんどし)で相撲を取る』ような人達だったので、このチクりを行ったわけだが。
 まあ、このような形で「チクる」ことをしてきたが、これをするに当たって、こんな私でも少々心が痛んだ事もあり、また、この行為をする勇気が持てなかった事もあった。今回は、そんな時に考えるべきことを紹介していこう。

 まず皆さんに2つの質問をしていきたい。

① 5人組であるプロジェクトにおけるグループワーク(学校や会社での小集団活動など)をすることになった。しかし運が悪く、今回のグループのメンバーは、ほとんど作業をしてくれず、受け身属であった。最終的に、殆どの作業をチームリーダーである自分自身のみでする羽目になったが、それなのにも関わらず、プロジェクトの報告会では「自分たちも一生懸命取り組みました」という態度を示した。
② 2人組であるプロジェクトにおけるグループワーク(学校や会社での小集団活動など)をすることになった。しかし運が悪く、相方は、ほとんど作業を手伝ってくれず、俗に言う「受け身属」でもあった。だが、この相方は以前から好意を寄せていた人だったので、作業を手伝うように強いる事ができず、最終的に、殆どの作業を自分自身のみでする羽目になった。

さて、上記の2つの事象に関して、ほとんど最終的な結果は同じであるが、結果に至るまでの心の動きが違うと思われる。これらの事象が起きた時に、あなたが仮にも耐えられずに上司や先生に「チクろう」という結論に帰着した場合、あなたは両方の事象、もしくはどちらか一方のみの事象で「チクる勇気」が出せるだろうか?

 どの選択をするにせよ、かなりの勇気が必要になってくることは間違いない。そして、この勇気の中には、「チクる行為に対する自責の念」や「メンバーにバレることへの恐怖感」も含まれてくるので、かなり決断力を要されることは自明的だろう。ではなぜ、この「チクる」という行為は、これ程までにも自責の念や恐怖感に煽られるのであろうか?
これは非常に難しい問題だが、私が考えるに、同じ人間として相手の弱みや欠点を、総括する立場の人間に積極的に告げ口をする事ができない傾向にあるのであろう(相手が本当に嫌いな人の場合は別だが)。

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 では、表記にもある「チクる勇気」を積極的に見出すためには、どのようにしたら良いのだろうか?

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