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「ペリーの来航にともなう日本における蘭学の衰退とその後」および「ヨーロッパにおけるオランダ語の社会言語学的位置づけ」について

Ⅰ「ペリー来航前の日本における英語やフランス語の位置づけについて」

江戸時代において、幕府の関係者たちは英語やフランス語が外交語や国際語としての地位を持っていることについては、十分な認識を持っていたとは言い難いです。

江戸時代において、幕府はオランダ商館を通じてオランダとの交易を行っており、オランダ語を通じて西洋の知識や文化が伝えられていました。この時期、オランダ語は幕府や学問者の間で外国語として学ばれ、研究や交流に使用されていました。

一方で、英語やフランス語は当時の幕府の関係者たちによってはあまり認識されていませんでした。オランダ商館を通じての交流はオランダとのみの関係であり、英国やフランスとの直接的な接触や交易は限られていました。そのため、英語やフランス語の地位や役割については幕府の関係者たちにはより限定的な知識しか持たれていなかったと考えられます。

ただし、19世紀初頭における幕末の動乱期になると、日本がより広範な西洋の学問体系と接触するようになりました。この時期、英国やフランスとの関係が深まり、西洋の文明や外交の実情についての知識が進展しました。明治時代に入ると、日本の近代化に向けて英語やフランス語の学習や使用がより一般的になり、外交語としての地位が確立されていきました

Ⅱ「ペリー来航による蘭学の衰退にともなう蘭学者たちの方向転換について」

ペリー来航による日本の開国後、日本の外国語研究はオランダ語から英語に移行する傾向がありました。これは、開国によってオランダ商館が廃止され、その代わりにアメリカやイギリスなどの国との交流が盛んになったことが主な要因です。

オランダ商館が廃止されると、オランダ語を教える機関や研究者の需要が減少しました。一方、アメリカやイギリスからの交流に伴って英語が重要な言語となり、英語の需要が急速に増加しました。そのため、一部のオランダ語研究者は英語研究に方向を変えたり、英語の教育を行うようになりました。

また、オランダ商館の廃止によってオランダからの知識や情報が制限されたことも、英語へのシフトを後押ししました。オランダ商館が存在していた時代には、オランダ語を通じて西洋の知識や文化が伝えられていましたが、開国後はアメリカやイギリスから直接的に西洋の知識がもたらされるようになりました。そのため、英語を学ぶことで最新の情報にアクセスできる利点がありました。

ただし、全てのオランダ語研究者が一様に英語研究に移行したわけではありません。一部の研究者はオランダ語研究を続けたり、他の言語研究に興味を持ったりしました。また、英語研究者の中にはオランダ語を研究する者もいました。研究者個人の興味や専門分野、環境などによって、それぞれが異なる研究方向を選択したと考えられます。

要するに、ペリー来航後の日本において外国語研究はオランダ語から英語に移行しましたが、個々の研究者によって異なる選択がされたことを意味します。

Ⅲ「日本における本格的英語学習の黎明期について」

幕末に蘭学者が英学に転身する際、英語の学習は容易に進んだとは言い難いです。英語はオランダ語とは異なる言語であり、文法や語彙などに違いがあります。したがって、蘭学者たちが英語を学ぶ際には新たな努力や学習が必要でした。

蘭学者たちはオランダ語を学ぶ過程で西洋の学問や文化に触れてきましたが、英語についてはそれまでの教育や研究の中心にはなっていなかったことが多かったです。そのため、英語の学習には新たな教材や教授法が必要であり、苦労が伴ったと考えられます。

また、当時の教材や学習環境が限られていたことも英語の学習を難しくした要因でした。オランダ語の教材は比較的入手しやすかった一方、英語の教材は限られており、資料の入手や学習環境の整備には困難がありました。

それにもかかわらず、一部の蘭学者たちは英語の学習に取り組みました。彼らは英語の教材や文献を入手し、自己学習や他の研究者との交流を通じて英語を習得しました。また、一部の英国やアメリカの宣教師や教育者からの指導を受けることもありました。

英語の学習は容易ではありませんでしたが、蘭学者たちは英学に転身し、西洋の知識や文明をより広範に学ぶために努力しました。その結果、英語の習得と英学の普及に一定の成果を上げ、明治時代の日本の近代化に貢献しました。

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