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可愛がる_2024年2月15日木/晴れ

よく「犬は家族」という。
けれど、そこに血縁はない。というか種類がちがう。
「家族」のくくりを、
「いつもいっしょにいる」とか「信じられる」とかに広げてやると、
ようやく犬は「家族」になるのだね。

だから、いうことを聞かないとか、反抗するとかが続いたりすると
そんな犬を嫌うことがある。
嫌うとはこの場合、犬を「家族」ではなく、ただ「犬」と思うことである。
なにかで唸るは暴れるわの犬を、反抗期の子どもにするように
「立派に社会で生きられるようにと願って、見守り続ける」
という人は少ないだろう。
たいてい犬を飼っていれば、
どこかで「家族」の線を引き直す瞬間がある、はずだ、たぶん。
少なくとも、子こどものとき雑種犬のシロを飼ったわたしはそうだった。

犬というペットは、
「どこまでいっても家族」と「全くそうでないもの」の間におかれたいきものなのかもしれないな。
これは主観だから、犬の状態に関係なく、こちらの機嫌がいいときは「どこまでいっても家族」に近づく。

時と場合によって関係が微妙に変化するもんだから、
犬の一途な目をみたりすると、いたたまれなくなったりする。

もうひとつ、犬との関わり方には、パートナーというものあるな。
盲導犬とか警察犬とか「仕事」の関係というより、友達のような感じのこと、ね。

とあるアメリカの警察犬が今日で引退するという日、
テニスボール遊びが大好きだった犬に向かって、
同僚のポリスたちが、せーのでテニスボールを投げつける、
というサプライズパーティーの映像を見たことがある。
いきなりたくさんボールが飛んできたときの、犬のはちきれんばかりの顔ったら! 
こんな自律した関係っていいなぁと思ったりする。
仲間を信じるとか信じないとか、お互いの努力の結果だよ。
犬だって、ポリス仲間に溶け込むように気を遣ってきたんだよ、きっと。

話はちょっと変わるけど。
戦争を知る人たちと食事していると、
鶏が食べられないという話題になることがある。
彼らが子どもの頃は自宅の庭で鶏を飼い、食べるのが普通だった。
鶏が食べられないという人は、その首を落とし羽をむしるところを見てるから、そのときの気持ち悪さを思い出してしまうという。
朝、いつも特別に可愛がっている鶏にエサをやり、
学校から戻ったらその鶏が肉にされていた、
なんて話をする人の顔は悲痛だ。

ほんとうはみんな、
可愛がりたいもものを、いつまでも可愛がりたい
と、思ってるのではないかなぁ。

犬を飼うことの底にも、こういう欲があると思う。
犬を飼えるって、なんて幸せなんだろう。

あぁ、もっと犬を撫でろ!
おやつもおもちゃも服も買え!美容院へ連れて行け!おしめを変えろ!
その犬は、長くは待ってくれない。

ペット業をやってる犬も大変そうだね。






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