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燃えあがるノートルダム寺院をかこった市民たちが、アヴェ・マリアを歌っているというニュースを聞いたとき。

ぞくりとした。
あまりに絵画的だった。
伝統的といってもいい。
中世ヨーロッパのできごとかと思った。

ノートル=ダムとは、わたしたちのマダム、すなわち聖母マリアを指す。
聖なるマリア寺院が、炎にのまれて、うち崩れてゆくさまを、民衆がとりかこむ。
聖歌をうたいながら。
マリアを祝福する歌をうたいながら。
教会のステンドグラスにでも、ありそうなモチーフである。
しばらくすると、教会史として絵画になるかもしれない。
それほど歴史的だった。
同時に、ものすごく既視感があった。
大昔から同じことが繰りかえされている。

聖母マリアに、ゆるしを乞う。
これほどぴったりな歌もない。
慈悲は、マリアからもたらされる。
いにしえからの信仰の対象を、炎上させてしまった民衆の罪深さ。
慈悲深きマリアは、きっとゆるしてくれるだろう。
マリアはそういった存在なのだ。

慈母観音というのもある。
古代から近代にいたるまで、いかに観世音菩薩が愛されてきたか、いかに民衆の身近にあったかを語ると、はるかなる脱線の旅路にいたるので端折るものの、観音菩薩の本質は、いつくしみにある。
洋の東西を問わず、わたしたちは、慈しんでくれる上位概念をもとめてきた。
ゆるしてもらえるように、聞き届けられるように。
あわよくば、そんなわたしたちでも、愛してもらえるように。


民衆は歌うだろう。
あまりの哀しみを、あまりの喪失感を。
ノートルダムが、わたしたちのシンボルが、こころのよりどころが、炎に消えてゆく。
千年の信仰が、けむりとなって、たなびいてゆく。
先祖代々の、祈りの結晶が、消えゆこうとしている。
なんということだろう。

なおも民衆は歌いつづける。
手をつないで歌いながら、おたがいをゆるしあう。
とても哀しい。どうしていいかわからない。
でも、みんな哀しんでる。
あなただけじゃない、わたしだけでもない。
みんないる。みんな哀しんでいる。あなたもわたしも、みんな哀しい。
そう、あなたはなにも悪くない。
あなたにはなんの、咎もない。
だれもあなたを咎め立てはしない。
なにもできない自分をのろわなくていい。
無力は罪ではない。
無為は、責められはしない。
あなたはきっと、傷つかなくていい。






▼「いったことあるだけにショック」という声が多くてびびりました。


▼いったことないひとは、わたしといっしょにノートルダムの鐘でもみましょう。


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