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映画「燃ゆる女の肖像」 生きづらさの中で全うする、女性の愛と生の物語

気がつけば異世界へ引きづりこまれ、観た後にはまるでひとつの美術作品をみたかのような錯覚に陥った。
「どこまでも美しい作品」その一言に尽きるほどに、どの角度から観ても「完璧」で、研ぎ澄まされ、とても繊細な作品だった。

2021年2月5日、近くのミニシアターでようやく公開となり、以前からずっと心待ちにしていたこの作品を鑑賞しに、私は出かけた。

一方で現在、女性のequalityを求めるムーブメントが日本で起きている。各国の大使館からは「DontBeSilent (沈黙するのはやめよう)」というハッシュタグで男女平等への支持と連帯を表明している。
この映画を鑑賞したタイミングが偶然だとは思えず、思わず筆を取りたくなった。


この作品は「女性」についての全てが描かれていると感じた。

それも、一切の無駄な演出、セリフ、音、人物などが排除され、非常に洗練され、どこまでも美しい映像によって。

まるで1枚の絵画を鑑賞しているかのような感覚に陥ってしまうほどに。

登場人物はほとんどすべて女性に限定されている。だからこそ、男性との関係性や、その差異、から捉えた女性性ではなく、女性が本来誰もが持つ官能性や美しさ、情念や本質のようなものに触れ、なんともいいがたいエロティックで濃密な2時間であった。

ストーリーは、画家として貴族に招かれたマリアンヌと、貴族の娘エロイーズの女性同士の恋物語を主とし、彼女たちの心の機微や感情を、言葉ではなく表情や視線により表現され進行して行く。2人が唇を重ねた瞬間、温度をもち艶めきたつ彼女たちの肌の質感や香りまでもが画面を通して伝わってくるかのようであった。その美しさに、思わず息を呑んでしまう。

特に印象的だったのは、音である。

鉛筆の擦れる音、暖炉の火が燃える音、彼女たちの歩くヒールの音やワインを注ぐ音。この作品中にはほとんど音楽がない。だからこそ強調される生活音が、心地よく耳に響き、映画の最中であるにもかかわらず、その音の快楽に瞼を閉じてしまいたくなる。


こうした美しい描写や洗練性の中に、当時の女性たちが(この映画は18世紀フランスが舞台である)、それぞれの社会的階級や立場において、どのような役割を求められていたのか、といった、非常に現実的な側面が描かれるシーンに数多くぶつかる。
美しい映像と、描かれているシーンとの対比により、ある種のそれらの残酷性を強調しているようにも思わされた。

エロイーズは貴族として、「男性」と結婚して子どもを産み、家を存続させなくてはならない。
画家であるマリアンヌは、自分の名ではなく、同じく画家であった「父親の名義にて」絵を描いている。(彼女の名は決して歴史に残らない)
「女性画家は描ける題材が限定している」というセリフ。(しかしそれについては当然のことのように受け入れている、というよりは受け入れざるを得ない社会なのだろう)

また、この作品の中で最も印象的で最も重要なシーンだと感じるのは、メイドのソフィが中絶を試みるところだ。ソフィの中絶シーンのベッド上に小さな赤ん坊がいるのは、きっと彼女自身の母性がないための中絶ではなく彼女自身が望まぬ妊娠であるが故のものだということが伺える。

エロイーズの姉は、見ず知らずの男に嫁ぐことを拒否して自殺した(とされている)。


この時代に女性が本当に自由になるためには、命や名誉を犠牲にしなくてはならなかったのだろう。

彼女たちがいかに「男性」による社会構造によって分断され、その役割を全うせざるを得なかったのか、ということは、男性や母親(という監視者)が不在となり3人だけの時間を過ごす時間の開放感によって、非常によく表現されている。

3人の女性、メイドのソフィ、画家のマリアンヌ、貴族の娘エロイーズの描かれ方は、どれも皆平等に、魅力的に描かれる。

ソフィが刺繍をしている横顔の美しさ、画家のマリアンヌが絵を描く時に見せる上目遣い、貴族の娘エロイーズの硬く緊張した顔立ちから溢れる官能性や厳格さ。

彼女たち三人はそれぞれ社会的な立場も役割も違うが、皆それぞれの表情、それぞれの美があり、どれもが凛としていて素晴らしい女性であるということにも気がつかされる。

また、3人だけの時間、自由であった彼女たちは、まるで3人の役割が入れ変わるかのような場面さえある。

女性が、自分らしくあれる状況においては、彼女たちは立場や役割に囚われることなく、各々が自由に行動し、自由に発言し、そして親密になれるのだろう。(私は自ずと自分自身が女子高で過ごした3年間と女子大時代の4年間に感じた、自由で解放的だったときのことを思い出した)

事実、3人だけの時間を過ごしたあと、彼女たちはまた「現実」に戻り、それぞれの運命に従って生きることを選ぶ(しかない)のである。


このような現実的な描写が散りばめられている中で、この作品が究極までに追求されたであろう徹底的な「美しさ」は、この映画における救いであったように思う。

セリーヌ・シアマ監督は、インタビューにおいて愛の美しさと共に、この映画で伝えたかったもう一つのテーマについて語る。

「美術や文学や音楽などのアートこそが、私たちの感情を完全に解放してくれることを描きました」

実際に登場人物である彼女たちは絵画や文学などに触れ、それについて考察しあったり、美しい刺繍を創作したり、好きな音楽をピアノで奏でたりしている。その姿は、彼女たちを、より魅力的にし、キラキラと輝いて見えた。

*****


いつの時代においても、様々な社会的背景があり、その中で人を愛する美しさがあり、喪失することの悲しみがあり、そして何よりアートや美術などに救われている人々がいたのだ。

この時代の彼女たちが、その運命にとらわれる事なく(また抗うこともなく)生きるしかなかったにもかかわらず、その人生を彼女たちなりに「主体的に」生き、自身の信じる愛を全うした美しい姿は、今私たちが直面するこの世界においても同じように救いとなるだろう。

美しい絵画、美しい言葉、美しい音楽、(そしてこの素晴らしい映画)のように、私自身も女性として、そして人間としてどんな状況であっても自分の信ずるものへ情熱を持ち、美しいと感じる表現を選択し、主体的に生きていきたいと思う。

エンドロールに流れる女性たちの力強いア・カペラの曲をいつまでも耳の中で奏でながら、そのようなことを、心に強く思った。

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