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君の鼠は唄をうたう(9)はなおとめ

相棒、という言葉に僕は水でもぶっかけられたみたいに目を覚ます。

「信じる信じないは、あんたの勝手だよ」

訪問者は、そう言って寝ぐらを見渡す。よくもまあ、こんなところにとでも言いたげな顔で。


「あいつは、ただ唄をうたいたかっただけだよ。それと、あなたが言う裏切りとどう関係が」

鼠の顔を思い浮かべながら僕は言う。

「そうらしいな」訪問者は一呼吸置いて、何かを確かめるようにまた話し始める。

「あんたの相棒は、たしかに女のために唄いたかった。唄うことは違法だと知っていてもだ。そもそも、あんたはなぜ唄うことがここで禁じられているか知らないみたいだな」

「知ってるさ」僕は言う。

「まさか、姫鼠の駆け落ちのせいだとか言うんじゃないだろうな」

僕は、何も言えず訪問者の眼を見る。

「どうやら、本当に知らないみたいだな。本当の理由は、暗号だからだよ。ここには唄なんて存在しない。あれはすべて暗号化された情報だよ」


……暗号…。さっきまで普通に飲んでいた透明な水が、実はドラッグだったとでも言われたみたいな気分だ。

「あいつは、そのことを知って?」

「もちろんそうさ。ただ、女の鼠が外部の情報機関に出入りしてることまでは知らなかった」

「あいつは、どうなるんだ?」冷ややかな空気が身体のあちこちから這い上がってくるような、虚しさを感じながら僕は聞いた。

「然るべきところが、然るべき対処をするだけだ。もっとも、どうなるかはあんた次第さ」

訪問者が消えたあとも、僕は僕自身を持て余していた。いずれにしても、僕に逃げ道はないのだ。あるいは、ここに迷い込んだときから、こうなることは
決まっていたのかもしれない。


何時間たったのだろう。僕は怒りも哀しみも何も見つけられない妙にフラットな自分の体を起こし、訪問者から渡された包みを抱えて寝ぐらをあとにした。

……つづく

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熊にバター
 日常と異世界。哀しみとおかしみ。ふたつ同時に愛したい人のための短編集(無料・随時更新)