君の鼠は唄をうたう (1)はなおとめ
声を掛けてきたのは向こうからだ。
「やあ」と鼠は言った。
僕は疲れきっていて、返事をする気分になれない。
「疲れてるね」
鼠は、僕の真正面に立ってさらに話かけてくる。
「そのとおり。もう3日も歩き続けてる」
僕は、うんざりしながら答える。誰だって、こんな生温かい下水管を果てしなく歩き回っていればうんざりだってする。
「どこに行くのさ」
鼠は、不思議そうな顔でたずねる。
「会社だよ」
こう見えても、やらなくてはいけない仕事もあるし、いろんな立場だってあるのだ。
もっとも、そんなものは僕が失踪した途端になくなっているかもしれない。
なにしろ、大切な会議の当日、僕は会社に辿り着けなかったのだから。
僕の噂をしている連中の姿がちらっとよぎる。
「その格好で会社に行く気なのかい」
「格好なんてどうでもいい。行かなきゃいけないんだ」
「無理だと思うよ」
「なんでだよ」
「……鼠…だから」
やつが言うとおり僕は立派な鼠になっていた。
薄汚れたスーツこそ着ていたけれど、その姿はどこから見ても鼠にしか見えない。
「……なんだよこれ」
僕は自分の身体を触って確かめながらつぶやく。歩く気を喪失した僕は、下水の壁にもたれて呆然とする。
「じゃ、おれっちは行くよ」
鼠が立ち去ろうとしていたけれど、僕は何も言う気が起きなかった。
いつの間にか鼠の姿は消えて、僕はまた暗闇に独りきりになる。
下水管はアンダーグラウンドという名前を与えられたのと引き換えに、その存在を永遠に葬り去られたのだろう。
人々の意識と切り離されたところで存在しているものは、もしかしたら他にもあるのかもしれない。現に、この僕がそうなったように。
そんなことをぼんやり思いながら、僕は下水の壁にもたれ、眠っているのでも覚醒しているのでもない時間の中を漂う。
滴り落ちる水の音で目が覚めた。
ぼんやりした意識の中で、身体だけが妙にこわばっている。ふと、身体が元に戻っている気がして、触って確かめてみたけれど返ってきたのは明らかに人間とは違った感触だった。
僕は、がっかりして歩き始めた。
歩いたところで身体がもとにもどるわけでも、もとの世界にもどれるわけでもなかったけれど。
……つづく
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◎熊にバター
日常と異世界。哀しみとおかしみ。ふたつ同時に愛したい人のための短編集(無料・随時更新)