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浅生鴨さんに会ってきたかも(その4)世の中はほとんどハズレだから

プロの迷子(!)浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。今回は、意外にそうかもしれない目からウロコの仕事論。前回はこちら


受注体質――。渋谷で100人に「浅生鴨さんと言えば?」とインタビューしたとき約8割の人が「受注体質」と答えたのは有名な話だけど、まあそれぐらい「やりたくてやったことはない」と言い切れるのが浅生鴨さんだ。

そもそも、今回のエッセイ『どこでもない場所』だって「発注されたから」、「本当に書くの、嫌だったんですよ。本当に嫌で」と切に言ってるぐらいである。なのに、この仕上がりだからずるい。今年読んだエッセイの中で異様におもしろい。

世の中には、作者が「これをつくりたかったんです!!」「これが書きたかった!!」と前のめりになって世に問うたものがあふれているけど、その想いが空回ってるものも少なくないというのに。


世間一般では受け身の「受注体質」は悪しきものであり、受注体質から抜け出して「自分から仕事を取りに行けるように」「自分を自分で表現できるように」ならなければ一人前とは呼べぬという風潮もある。

だけど、本当にそうなのだろうか。

浅生鴨さんは、人間は自分の中にプログラムが入っていれば、周りから見て本人の好きなことと真逆のことでもやれてしまうものだという。実際、浅生さん自身、何人分もの職歴のどの仕事も、どれも誘われたり流れの中でやっただけ(受注体質)で、好きなこととか得意なことの範疇には入っていない。

なのに、どの仕事も発注されてちゃんとやれてしまうのである。というより、当たり前だけど「プロ」である。今も、肩書がなくてもいろんな仕事を頼まれてしまう。どういうことなのか。

「それは発注する人も、僕にサッカー日本代表監督のオファーは絶対しないんですよ。たぶん。誰も僕にできるとは思ってないから。だけど、こういう広告つくってもらえませんか? は『こいつにはできるだろう』と思って発注してくる。だから自分では、できるできないはあまり考えないようにしてる。発注が来たということは、自分にできるから発注が来たと思うんですよ」

          *

「これは無理」と口には出す。でも、腹の中(無意識といってもいい)では無理じゃないということが浅生さんの中で行われている。本当に無理なのは「物理的に無理」「やりたくない」ということでしかない。本当に無理なことなら、そもそも発注が来ないのである。

「だから自分で判断してないんですよね。所詮、他人の判断というか」

自分からこれをやりたいとか、やるべきかという判断をせず「他人の判断」に委ねてしまう。自発性を望んでいる上司や学校の先生が聞いたら眉をひそめそうな話だ。いったい浅生さんはどこまで本当に他人任せなのだろう。

「犬を飼うと、犬の生活のほとんどは人間任せになるんですよ。散歩も食事も、ケガしたときの処置も、日々の遊びの道具を用意するのも。それぐらい他人任せでいいなと思っていて」

犬ぐらい自分を誰かに任せきりでいい。そんなことを言える大人はなかなかいない。

「でも犬って絶対嫌なことはしないから。いくら強制しても嫌なことはやらない」

確かにそうなのだ。犬、いや動物全般そうかもしれない。本気で嫌なことは絶対しない。それでも強制したら犬なら噛みつくだろう。だから浅生さんもそれぐらいの感じで受注体質に馴染んでいて、本当に嫌ならやらない。噛むほどじゃなければ渋々やるというスタンスでいる。

「基本的に僕、面倒くさいんですよ。あらゆることが。何もしたくないので。
言えば言うほどダメな人間になっていく。だから成功を目指してがんばってる人が不思議になってしょうがないというか。そんなにまでして、と思ってしまう」

そんな浅生さんの理想の生活は潔い。「本を読んで映画観て、海外ドラマ観て終わり」。どこか行きたいとかないんですか? と聞くと「あまり行かなくても困らない」らしい。一カ月ぐらい人と会わなくても全然平気なのだ。

ストイックにそうありたいとかではなく、浅生鴨さんの場合はそれが平常運転だということ。『どこでもない場所』を読みながら端々に感じた「本当のことば」は、もうしかしたらそういうところから生まれているのかもしれない。


本当は何もしたくないのが理想だけど、でもまあ噛みつきたくなるほど嫌じゃなければやる。その生き方がリアルだと思うし、そういう位相に「目的主義」の生き方では決して出会わないことばが出現するのだ。

「たぶん僕は自分がダメ人間だということを自覚してるだけだと思うんですよ。それに尽きるというか。それをべつに悪いとは思ってないんですよね。そういうもんだと思ってるだけなので」

自分は本心では何もしたくないのだという自覚。もちろん10代とか20代の若い頃は、無駄なエネルギーがあって何者かにならなければという想いも少しはあった。でも基本的にはやる気がないのはその頃から変わってないと浅生さんは言う。

「何をやってもやらなくても、暮らしが破たんしなければそれでいいというか」

こういう話を「なんていい加減なんだ」「青少年に悪影響だ。けしからん」と受け取るか「ああ、それでもいいんだ」と受け取るか。現代は圧倒的に前者の受け取り方のほうが多い気がする。べつに本人が不幸だと思わなければ、いい加減に生きてたっていいんだと言える大人が不足しているのだ。

「不足してますね。僕らの年代だとそうだと思うんですけど、僕らが子どもの頃に、町にちょっとおかしな大人が結構いて、小学生と一緒に野球したり、大人なのにお山の大将気分で子ども引き連れてる人とかいたんですよ。町の人から下の名前で呼ばれて『ごはん食べてんのか?』と言われて『あーっ?』とか答えてるような。何もせずにただぼーっと座ってるだけのおじさんとか」

いた気がする。よくわからないけど、子どもの僕らにお菓子を配り歩いてる知らないおっちゃんとかいた。今なら速やかに不審者情報が駆け巡るだろう。

「そういう何もしていない、アクティブじゃない人たち。そういう人が昔はふつうにいたし、今もいるのに隠されちゃってる。ある種の無駄な人の存在が消されてしまってるんですよね。それが本当にいい世の中なのか。今の子どもには立派な人しかいないし、いちゃいけないって見えてる。それは結構つらいんじゃないかな」

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今は僕も大人になってしまったけど、いい加減だけど幸せに生きてる人の姿が見当たらないのはたしかにつらい。

「全部が当たりの世の中に見せようとしてるけど、結構ハズレがあるからね。実際は。どれかに当たらなきゃってみんな一生懸命くじを引いてるけど、たいがいハズレですからね。ハズレを引いた大人たちが、ハズレちゃったよーって笑ってないとみんな安心できない」


まあ、たぶん今もディープな地域に行けば、そういうふうに生きてる大人たちに出会うこともあるのだろう。

「大阪の新世界なんてめちゃくちゃですからね。あまり大きな声で言えないような競馬の勝ち方をした人が興奮しながら目の前歩いてて、後ろのポケットに突っ込んだ一万円札の束がボロッと道に落ちたりするんです。僕が『あーっ』って思ったら、その瞬間に周りから何十人って集まって一瞬にしてお金を拾って消えるみたいな。落したおっちゃんも気付かずに歩いて行っちゃって。ああいうのを見ると『いいな』って思うんです」

そうした、よくわからないもので成り立ってる世界。現実にあるはずなのに、ないことになっている世界。まさに『どこでもない場所』にも通じる世界はたしかにあって、浅生鴨さんはそこへの入り口を冗談のように見せてくれるのである。

つづく