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浅生鴨さんに会ってきたかも(その3)本当のことは裸体より恥ずかしい

プロの迷子(!)浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。前回はこちら

子どもの頃から、ふらふらどこかに行ってしまうのが好きだった。家出でもなく、スタンド・バイ・ミーみたいな冒険でもない。第一、自分一人だし計画性も何もなく、ただ思いついたら知らない「どこか」に自転車を走らせるだけ。

地図も持ってないし、スマホなんてもちろんない。ただ道路標識を見上げて、なんとなくこっちだなと思いながら走る。道路標識には「知らないけれど、知ってる感じがする」地名が記されていて、そこを目指す。

そして、目的地の地名を示す標識だとか、地名の入ったお店の看板を見つけたら、それで満足して帰ってくるという自分でもよくわからない行動をしていた。よくそんなので本気の迷子にならなかったものだと今なら思うけれど、たぶん、そのときの僕には迷子の概念すらなかったんだろう。

つまり、迷子になったらどうしようという不安がすっぽり抜けていたので、たとえ道に迷っていたとしても、ただ「よくわからない道を走っている」という純粋な行為でしかない。

しかも、そんな状況――自分の暮らす町からも離れ、自分のコミュニティからも離脱し、どこでもない場所を彷徨っている「自分」が「本当の自分」に近づいているような気がして楽しかったのだ。

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浅生鴨さんと話していると、そんな場所から遠く離れてしまった「あのころの自分」が、まだどこかにいるような気がしてくるから不思議だった。それは、浅生さん自身が、あのころのどこでもない場所と自由に行き来できる人だからなのかもしれない。

今の時代は、常に先を見て、他人より早く、目指すところに最短距離で効率よく行き着くことができる人が評価される。生きることでも、仕事をすることでも、思考することでも何でも。

「だけど、それだけで人生できてるわけじゃないので」と浅生鴨さんは言う。
「それよりは、自分は冒険小説読んでる時間が好きだとか、何でもいいんですけど、そういうもののほうがずっと人生に残っていく気がする」

そうなのだ。特に目的なんてないもの。ただ、そうしたかったからする。そういう時間やそのときの記憶(それらは社会的経済的価値という点ではほぼ無価値だ)のほうがずっと訳もなく自分に残っていたりする。

「中学生のときに聴いたほぼ無名のアーティストのあの一曲、周りから誰それ? って言われるようなのとか。そういうもので僕らはできてるので。僕らの8割ぐらいは無駄なもの無意味なものでできてると思うし。なのにコスパが人生の本体になって、そこを目指さないと負けみたいなのが僕は合わないので、たぶんこの本はそういうのを書いてるんだろうなと思うんですよ。読むと」


コスパ信者や競争原理主義の人が聞いたら震えそうな話だけど、すごくわかる。このやりとりの中での「コスパ」は、コスパだけの話ではなくてそれらを含んだ謎の現象の符号みたいなものだ。

浅生鴨さんは『どこでもない場所』の中で「結果的に」そういう人生で無駄で無意味と思われるものについて書いた。だけど、それはやはり「書きたかった」わけではなく、書くことになってしまったからなのである。

くり返しになってしまうけれど「書こう」と思っていたらそれは目的のある場所についての本になっていて、きっと『どこでもない場所』の持つ、目的なく彷徨っている楽しさ、この時間が終わってしまう淋しさみたいなものはまた違ったものになっていたんだろうという気がする。

「こういうエッセイって本当に書くの、嫌だったんですよ。本当に嫌で」

担当編集Mさんが横にいるのに浅生さんは、なかなか言えないことを言う。実感こもってます、とMさんも同意している。なんだろう、この不思議なやりとり。

「自分の内面だったり、ふと考えてることは小説のかたちだったりフィクションの衣の中でかたちにすると、より踏み込んでいけるんですけど。エッセイは生の自分の血肉を見せないといけないところもあって、それは恥ずかしい。ほんと恥ずかしいですよ。こんな馬鹿なこと考えてるのかって」

その辺りはわりと自分でも突き放して書いてるのかというと、そうではないのだ。

「嘘は書けないし。もちろんエッセイとは言いつつ脚色はあるので、そっくりそのまま1から10まで自分の体験を時系列で書いてるわけではないので。何人かの話を一人の話にしたり、違うときに起きたことを近づけたりとか。とはいえ、自分の本当のことを書かざるを得ないので」

ここがエッセイの難しさであり面白さだと思う。というか書き手が試される部分でもある。そのとき、自分には世界がこう見えた。こう感じた。その位相のズレというか、おかしみと哀しみがエッセイを成立させる。

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嘘、つくり話ではない。でも、そっくりそのまま再現したところで、その「世界」に読み手を導くことはできない。なにしろ、読み手は本人ではないのだから他者の世界に入りようがない。そこを入れるように「つくりもの」ではなく、「つくりものの本物」の世界に気がついたら読み手を誘えてるかどうかだ。

「本当のことっていうのはレントゲン写真を見られるぐらい恥ずかしいですよね。医者ならいいんですけど。他人にレントゲン写真見られるの恥ずかしくないですか?」

レントゲン写真を見られる恥ずかしさ。ちょっとよくわからないような、わかるような気もする。「普通の裸を見られるほうが全然平気」と浅生さんは強調するように言う。

浅生鴨さんは、かつてバイク事故で九死に一生を得た経験をされている。そのとき人に自分の頭蓋骨のレントゲン写真を観られたのがものすごく恥ずかしかったらしい。

「隠しようのないもの。表面ってやっぱり隠せるんですよ。表情つくったり、誤魔化しようがある。女性だったらメイクしたり。頭蓋骨って隠しようがないので。エッセイはそういう意味で鎧が薄いというか」

《人って死んでも人なんですよ》――。

解剖学者養老孟司さんのことばを思い出す。養老先生は当然、仕事でたくさんの頭蓋骨も見てこられている。その頭蓋骨と先生はずっと対話をするのだ。

周りから見れば頭蓋骨と話なんてできるわけがないし、気味が悪いと思われてしまう。だけど養老先生からすれば死んだ人も、生きていないだけで「人」であることには変わりはない。いや、むしろ表情という誤魔化しようのない頭蓋骨そのままの姿のほうが「その人」そのものと対話できるのだろう。

エッセイによって曝け出される本当の自分は頭蓋骨を見られるように恥ずかしい。だからといって、浅生鴨さんが何かのキャラを普段から演じてるのだろうか?

「相手によって変わってるとは思いますよ。家にいるとき、家族といるとき、こういう取材を受けてる場、原稿の打ち合わせしているときではそれぞれ少しずつ違ってきてる。違ってないとおかしいと思うし。テレビ番組でタレントが来てこれから収録しますってときと、自分が仕切らないといけない現場とでは僕も違ってくるし、キャラは一貫してないし、一貫してないことを一貫してるというかそれを整えようとは思わない。そんなもんのでしょ、人って」

「結局、人って反応でしかないので」

浅生さんは、ときどき空中からボールを出すように思わぬことを言う。どこでもない場所から出る、どこでもないことば。

「環境があって、外部から刺激があって出てくる反応が人格なので。入力がないと人格って存在しないんだと僕は思ってるんですよ」

入力がないと人格は存在しない。そんなテーゼに思い至った何かがあったのだろうか。

「昔から友達といるとき、先生を前にしたときで自分の態度が変わるのが気にはなってたんですよね。前に『アグニオン』っていうSF小説を書いたときに人格とか感情をわりと丁寧に考えて、そのとき、人格って一つの固定されたものではないんだなって。ある種のプログラムされたもので、人によってプログラミングが違うんだって気づいたんです」

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今さらだけど浅生鴨さんはTwitter界隈で伝説の(と言っていいと思う)“NHK_PR 1号”をされていた元、中の人だ。東日本大震災を挟んだあの複雑な時期。浅生さんだからやれたんだと思う。Sensibleではなく、Sensitiveな人(もちろんいい意味で)だからなんだと話を伺いながら改めて思った。

つづく