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「大森荘蔵セレクション」 大森荘蔵

飯田隆・丹治信春・野家啓一・野矢茂樹 編  平凡社ライブラリー  平凡社


「決定論の論理と、自由」、「夢まぼろし」

第2部の「決定論の論理と、自由」と、第1部(前に読んだかと思うけど)「夢まぼろし」を読んだ。あとがき代りの4者対談の中に、大森氏は学生にものを徹底的に考えさせることには貢献したが、自分の思想の後継者はついに作り出せなかったということが書かれていたが、実際読んでみると確かにそんな気がする。前者は決定論はトートロジーが故に正しい。そこに自由を議論する余地が出てくる、という大雑把なまとめ。後者は夢やまぼろしと通常なものの違いは、夢まぼろしは触るなどの生活に影響しないという点にある、というもの。
(第2部はもう一度読み直す)
(2018  01/23)

第1部から「真実の百面相」、「心の中」

大森哲学の気軽な導入部の第1部(「流れとよどみ」から)を順に読みことに。最初のは読んだので、それ以降。

 真実とは貧しく偏頗なものではなく豊かな百面相なのである。
(p29)

 人の真実の断片はどこか奥深くかくされているのではない。かくそうにもかくし場所がないのである。その真実の断片は否応なく表面にむきだしにさらされている。そしてそれらを集めて取りまとめれば百面相の真実ができあがるのである。人の真実は水深ゼロメートルにある。
(p31)


P29の貧しくのあとは「へんぱ」と読む。偏っている(自分?)こと。
この文が含まれている「真実の百面相」はうなずいてついてこれたが、次の「心の中」はちょっと違和感あり。ここら辺では大森氏は結構概念メタファーの考えを用いる(記憶が写真の、心が箱の、それぞれ概念メタファー)
続いての「ロボットの申し分」とか「夢みられる脳」とかは、SFばりの構想力を見せて楽しい。
(2018  07/25)

「心の中」再び


久しぶりに「発掘」して、上で「違和感あり」と言ってた「心の中」をもう一度読んでみる…どこに違和感感じたのかな…

 だが(喜怒哀楽は)何かひっそり自分にとりこめるもの、外気から遮断して密閉できる領域、といった風なものが考えられている。心の中は外界に対しての「内部」なのである。しかし、これは錯覚ではあるまいか。喜怒哀楽は「内部」にではなく「外界」に、心の中にではなくて外気の中にあるのではないだろうか。
(p36)


確かに身体や脳の動きはその人個人のものであろう。しかし、その一連の反応が「喜怒哀楽」なのではなく、外界にある何かが身体に浸ってくるその何かが「喜怒哀楽」である、という(だから、上記07/25に書いた箱が心のメタファーである、という考え方はこの大森氏からすれば間違ったもの)。今回は割と頷く箇所が多かった、最後の「数キロ先の研究室の模様替えを想像する」事例で、想像され模様替えされた部屋も数キロ離れたあの研究室である、と言い切るところでは、ちょっと待って、と言いたくもなるが…
(2024 01/01)

「哲学的知見の性格」(1963)

本格的論文に入って第2部。「言語・知覚・世界」(1971)と同時期の論文6編。
最初の論文「哲学的知見の性格」(1963)(昨夜読んだ分)
科学と哲学は、取り上げる領域は重なるが、関心の持ち方が違うのだという。

 人間の精神活動の場において、散文的哲学と科学は気兼ねのいらぬ一つ釜の家族であり、科学は山に柴刈りに哲学は川に洗濯にゆくのである。
(p89)


決して長くないこの論文に、こんな文章入っているのが大森荘蔵らしく楽しい。
後半入ると、難しくなってくるのと同時に意外な論旨にも出会う。

 論証を求めることはより広範な事実記述を求めることであり、そしてここには現在で最も広範な事実記述が既に与えられているからである。「なぜ?」という問にはそこがありまた底がなくてはならない。
(p92)


「なぜ?」、「なぜ?」と始原へ問いを重ねていくのが哲学(或いは科学)かと思いきや、大森によればそうではないらしい。それを「事実記述」とか「散文的」といっているわけだ。

 むしろ哲学問題においては論証の鎖は大てい短く、「なぜ?」の底は科学や数学に較べて更に浅いのではあるまいか。
(p92)


ここに至って自分には意外さは極まるのだが、確かに問いを前に向けてもどうしようもなくパルメニデス「あるものはある」で終了してしまうのも確か。では哲学的課題自体も浅くなるのか?とも思う。

 幾何学や物理理論の場合と同じく、論証は前提の方向には底があるが、帰結の方向には底がないのである。
(p94)


これで、前半で科学と哲学は関心の向け方が違うと言っていたのと結びつく。科学は常に実践へと進むが、哲学も同じ実践の方向へと進むべきだと。それが「散文的」哲学なのだと。
(2024 03/11)

「他我の問題と言語」(1968)


この論文の導き手はヴィトゲンシュタイン。主に「哲学探究」の。

 このイメージはいわば「絵なきさし絵」である。(アンデルセンに「絵なき絵本」という本がある。)このさし絵-「人」はその肉体に加えて意識があるという-の中で私は人を眺め人とかかわっている。だが、このさし絵の絵を私は画くことはできない。彼が痛みを感じ、彼が考える、という絵を画けないのである。
(p103)

 相貌を持たぬ素面というものはどこにもない。この、「人」の相貌において、「人」は痛みを感じ、考え、希望し、悲しんでいるのである。「誰かの手が痛むとき、…人はその手を慰めはしない。その手を痛めた人を慰める。その眼をみてである」
(p106)


(p106の後半の「」の文はヴィトゲンシュタイン)
他我問題。どのように他者の他我を理解するのか、は20世紀にも大きな議論を呼んだ。他我そのものを人は理解できない(絵なきさし絵)。そこで仲介するのが「相貌」。

 「私」という言葉は私にとってまた一つの絵なきさし絵であり、「私」は実は世界の前風景がとる相貌の名に他ならない。「私とは私の世界に他ならぬ…」
(p116)


こっちの「」内の言葉は「論理哲学論考」のヴィトゲンシュタイン。私と対峙する世界という切り口もまた相貌なのだという。この内容は本を閉じてしばらく考えて寝かしてみないとわからないと思う。
(2024 03/12)

「言語と集合」(1969)

 これが「直方体」がどんな形であるのかを「知っている」ことなのである。つまり、任意の「見え姿」が与えられたとき、それが「直方体」なる(「見え姿」の)無限集合の要素であるか否かの判別ができる。このことが直方体を「知っている」ということ、直方体の「意味を了解している」ことなのである。
(p119)

 無限集合を生成する言葉は、その集合の要素と同じ領域に「ついて」、しかし異なる「語り方」をする言葉なのである。だが、あるものを、そして世界を異なる「語り方」で語るということは、異なる相貌の下で世界を眺めることに他ならない。むしろ、さまざまな相貌の下に世界があらわれてくることが、われわれにさまざまな「語り方」を強い、その語り方のための言葉を押しつけた、というべきであろう。
(p129)


直方体の見え方、立ち現れる直方体…とかいう議論、古田徹也「言葉の魂の哲学」になかったか。それから、無限集合とその要素、これがイデアとかゲシュタルトというものの正体である、というところも。そして「普遍論争」のテーマもこの無限集合というものに現在は着地しているのかも。
(2024 03/14)

「決定論の論理と、自由」(1960)

 伏せて重ねたトランプを見て、「一番上の札が何であるかは知らないが、何であるかはきまっている」という時、一体何がいわれているのだろうか。この言葉を聞いて、それを聞かない前に較べて、私の知識が些かでも増しただろうか。
(p131)


この手の結局何も言っていない〈きまっている〉を空虚な決定論、あるいは全面的決定論と名づけている。
そして、他の形式の決定論も突き詰めればこの空虚な決定論にたどり着いてしまうと大森氏は指摘する。

 これから観察するように、奇妙にも他の形の決定論も結局はこの空虚な決定論に舞い戻ってしまうのである。
(p133)

 多くのこと柄はわれわれの自由にならず、ままにならない。自分自身のことについてそうなのである。部分的な決定論は正しいのみならず、われわれの生活の基盤なのである。
(p171)


自由も空虚な決定論の上に成り立つ。そしてその空虚な決定論を否定する上では自由は成り立たない。
(2024 03/15)

「知覚の因果説検討」(1960)

これまでの中でもかなり難しかった…
結論いうと、物があって大脳に知覚像ができてそれが実際の物のところに投影されるという図式が、知覚描写の集まりであるものが大脳に集まって知覚像をその場所に生み出す、というのに置き換えるというもの。そしてそれは実際の物と知覚の二元論ではなく、限りなく一元論に近くなる、という。

 物理的カーテンは緑のカーテンの原因の一部であり、また、それだけなのである。物理的カーテンだけでは、緑のカーテンという知覚は生じない。
(p186)


二元論から一元論へ。物理的実体が(なんとなく)優位になっていたのを、知覚の一部分として再配置しているような。

 あるものが鉄である(物理的に…引用者注)、ということを言うためにはそれが鉄の満たすべきテストをすべてパスせねばならない。すると「鉄である」というこの意味は正にこれらの必要なテストの全体に他ならないのではないか(意味の検証理論)。
(p200-201)


ここは最初の「知覚描写の集まり」という状況を説明したもの。そしてこれは前に見た「言語と集合」の直方体の意味了解とほぼ同じ手続き。

「知覚風景と科学的世界像」(1969)


(「知覚の因果説検討」の前にこちらを読んだ方がよかったか…)

 科学的描写は知覚風景に(時空的に)重ねて描かれた描写なのであり、そうしないで知覚風景と独立にそれを描くことはできないものなのである。
(p212)


もちろん完全に重なるわけではなく、鏡像などさまざまなズレもある)とにかく、知覚風景がまず先にある。

 知覚風景を棚上げしてこれと絶縁することは、科学が描写する世界の場所ぎめをする手だてを失うことであり、どこかの世界かその場所のわからぬ世界はまさに宙をさまよう世界なのである。
(p218)


ここは文章楽しいので引用してみた…と思っていたら、どうやら大森氏は量子物理学のことを念頭に置いている…「描写」にはならないかもしれないが、「手だて(条件分岐)」にはなると思えば…
以上で第2部終わり。
(2024 03/17)

「ことだま論-ことばと「もの-ごと」」(前)

第3部突入。主要論文「ことだま論-ことばと「もの-ごと」」
第3部冒頭解説(野矢茂樹)によると、この中期大森哲学は「立ち現われ一元論」の展開期。世界と主観の間には何かの媒介とかはなく、世界そのものがじかに立ち現われるという主張。第2部の知覚論でも似たような見解出てたと思うけれど、ここでは知覚だけでなく思考も含まれるようになった。言葉と世界の間にも媒介するものは何もない、として「意味」を退ける(無-意味論)

 言葉の働きは、「深層」にあるのではなく「底」、すなわち具体的、個別的状況での働きにあるのである。そして、「意味」なるものは浅い「深層」や「表層」の夢幻的浮遊物であって、水を干しあげて「底」を陽光にさらせば雲散霧消するものであろう。
(p229)


表現がなかなか面白くイメージしやすい文章だけれど、「底」がつかめない。「深層」と「底」の違い、「底」と具体的状況との(自分の中での)ミスマッチ、そして「底」自体は陽光にさらせばどうなるのか…
(何か読み足りない?)
(2024 03/30)

続き
ヒュームの言う通り、普通の人が知覚しているものも実は実物そのものではなく「表象」だとすれば、一元論も二元論もあまり変わらないものになる。一元論は「表象」を取り払ってじかに立ち現れるという点を徹底させる(ヴィトゲンシュタインの立場)。

 観念は、単にそれ自身において見られ、他のものと関係させられないならば、本来偽ではありえない。なぜなら、私が山羊を想像しようとキマイラを想像しようと、私が想像するということ自体はどちらの場合も等しく真である
(p251 デカルト「省察」)


二元論の元祖みたいなデカルトが実は大森荘蔵と近いところにいた、という更に面白くなってくる展開。この「実在するか否かは他のものとの関連で決まる」というのは、また後で検討するとのことで…
「存在」(エグジステンツ)の語の由来は「外に(エクス)立ち出でる(シストー)」では、まさに「立ち現われ」。
(その後のいわゆる「概念」とか「定理」みたいなものは、「待機の姿勢」で立ち現われる、という。これってアリストテレスの可能態(だっけ)と果たしてどう違う?)
表現者、詩人から日記からなんらかの報告書まで、これらの表現者はまず、自分自らに宛てて表現を模索する。

 こういうとき、或る「もの」「こと」が立ち現われていて、それを適切な表現で描写する、といった平板な作業ではない。普通はまずその「もの」「こと」の立ち現われ方が明確ではなく、いわば「渋って」立ち現われている。それは「しかと見定め難い」立ち現われ方でしか立ち現われていないのである。われわれは、それを凝視し、見定めよう、見極めようといら立つ。そこに、一つの表現(声振り、またはその想像)が立ち現われてくる。もしそれが的を射た表現であるときは、それまで渋々立ち現われていた「もの」「こと」はさっとその姿相貌を変え鮮やかにくっきりと立ち現われる。
(p260-261)


ここ頷く人多いのではないだろうか。大森氏自身も「模索している」と述べているとおり、ここが「立ち現われ一元論」の出発点だったのかもしれない。
「ことだま論」前半終わり。
(2024 03/31)

「ことだま論-ことばと「もの-ごと」」(後)

 「もの」が時間を通して持続し同一であるのは、その刻々の状態でのその「もの」、その刻々の「現われ」が「同一体制の下」にあるものとして現われる、それ以上でもそれ以下でもない。その刻々の状態や現われが絶えず変化しても不変にとどまってもかまわない。しかし、刻々の状態での「もの」や刻々の「現われ」の他に、何か「同一不変」なものがなければ「同一体制」は不可能だと考えるのは全くの誤りであると思う。その考えこそ、「同一不変」の「意味」、「同一不変」の「対象」、の想定に誘うのである。
(p269)


この辺探っていくには、カテゴリー化などの認知・思考の様相を精緻に観察していかなくてはならないだろう。そうした研究に対して、大森氏の論は指針の一つになるだろう。
(自分には次第に、最初から結論ありきで書いている疑念もだんだん出てきてしまう…)
(2024 04/03)

同一体制の立ち現われを繋げて系列を作る(p286の図)。そうして系列に充填されていくのが「正」であり、どの同一体制の系列にも入れず孤立するのが「誤」である。これを外れた「真偽」なるものは存在しない。

 眼前のオムレツが「正しい」立ち現われだからわたしはそれを食べることができるのではなく、逆に、わたしが食べられるからそのオムレツの立ち現われは「正しい」のである。「正しい」から「信じる」のではなく、命懸けで「信じる」ことがらが「正しい」ことがらなのである
(p290)


それも知覚のうち、味わい、触れることの方が「賭け」の程度が高く、見たり聞いたりすることはそこまでいかない。オムレツと思って食べたものに毒が入っていたり、触れたものが高温で火傷したり…

 真理や実在によって生きるのではなく、生き方の中で真理や実在が選別的に定義されるのである。その定義はそれゆえ気まぐれや知的興味からなされる定義ではなく、命を賭け、生活がかかった定義なのである。
(p293-294)


上のオムレツの例を抽象化して言うとこうなる。そしてこれは帰納からアブダクションへの跳躍の説明ともなる。
(2024 04/04)

「科学の罠」

 科学は仕掛けられた罠ではないが、天然自然の罠の形をしているようにみえる。それと意図して作られたのではないが、天然のハエ取り器の形に作られている。そして、そう作ったのは他でもない、ハエ自身なのである。このハエは明らかに自縄自縛の習性、というより本性を持っている。
(p295)


という冒頭の刺激的な(楽しい)文章…の罠とは何を指すのか。「実物-像」が剥離して実物世界には一切触れられない、とする罠。

 この罠の仕掛けもまた至極簡単である。この剥離の想定それ自身によって「実物」への手掛かりが皆無になる、これがこの罠の仕掛けである。なぜなら、この想定自身によってわれわれの見聞きするのはすべて像であって実物ではないからである。
(p300-301)


大森荘蔵はこれに対し、相貌描写(全体的相貌、前論文の「立ち現われ」、感情と一体)、点位置描写(座標位置)、そして科学描写(考えられた描写)の三つを用意する。p325からの、知覚描写と科学描写(ここでは幾何学図形)での、知覚描写は科学描写を前提とするが、科学描写を伴わない知覚描写はありえない、というのはこれまでの大森氏の論調からなんか逆のことを言いそうな気がして、自分には意外。ともかく…

 科学描写は、相貌、点位置描写と並んで(知覚現場では)知覚状況の「抜き書き」なのである。それらは、実物描写と像描写の関係にあるのではなく、例えば。リンゴの形の描写と色の描写のように、「連言関係」にあるのである。
(p321)


ここいら辺、第2部の「知覚風景と科学的世界像」と何が同じで違うのは何か見てみたい…あっちでは「重ね描き」とあったけれど。
最後の節の「共変」は、これまた刺激的な考えを提示する。例えば本棚の中の一冊を別のところに移動したらそれだけで部屋の相貌が変わる。この「共変変化」はこれだけでなく、量子力学で観測により量子状態が一変する事例(p323)や、脳内部の治療などの変化(p324)もそれに当たる、と考えている。さすがにすぐには頷けないけど…

「虚想の公認を求めて」


テーマは見えていない側面などの知覚のされ方。

 この様式は、反事実的条件法、他人の意識、能力語(…できる)、更には死の概念にまで深くかかわり、それらを貫通していることが見られるであろう。
(p326)


ホントデスカ?
この前振りの後の第1節では、思いと知覚が比較される。前の論文の、知覚描写と科学描写の順番に対しての大森氏らしくないような大森氏らしさ(?)がここで主題として出てくる。要するにだいたいは知覚と思い(考える、想像する)のブレンド割合だけど、知覚0・思い100はあるが、知覚100・思い0はやはりないらしい。

 ヴィトゲンシュタインが、我々は不可能なことを思うことはできない、と言うのは正しいであろう。だが、困ったことに、我々は不可能とはどういうことなのかを明確に思うことができないのである。
(p337)


不可能なことを思うことができれば、それは可能なことになってしまう?

 架空の世界の想像こそ現実世界を現実的たらしめているのである。この机はその背後の架空の想像をこめて今現にあるように立ち現われているのである。机のこの知覚的立ち現われの中にこめられている、この背後の架空の想像(知覚的思い)の独特な立ち現われ方を強調するためにそれをヒュームの使った言葉をかりて「虚想」fancyと呼ぶことにする
(p338-339)


この虚想の働きは、机の見え方に始まり、暗闇の中にある薔薇の色、砂糖壺の中にある砂糖の甘さ(反事実的条件法の、眠っている陸上選手(能力話法・傾向話法)、他人の痛み、悲しみ(他我)なども、前振りで言われていたように虚想の働きがあって可能なものになる。そしてこれらは、絶えず次の何かが変わったり明らかになるにつれて、虚想も訂正され続けていく。「虚想の投錨場所」はこの世であって架空の世界ではない(ここがバークリーとは異なるという)。
だとしたら、死は?

 しかしこのような訂正をうけない、そしてたえずわれわれを脅かしている虚想がある。その脅かす相貌をよりおだやかな相貌に変更しようと人がむなしくこころみる虚想、「死」の虚想である。「我が死」の虚想である。しかしこの死の虚想こそわれわれが各々の生を今生きているように生きさせている虚想に他ならない。丁度、机の背面の虚想が机の正面を机の正面としているように。
(p357)


なんか大森氏の巧みなレトリックに惑わされているような気もしてきたが…
(「死は机の背面にあるんだよ」なんて気取って言わないようにしなくては(笑))
でも、今までの例では、机の背面、薔薇の色、砂糖の甘さ、陸上選手の能力、痛みや苦しみ…など、自分も知っていたからこそ知覚に虚想がこめられて立ち現われることができると思うのだが、死は生きている限り見えない背面であるから…
…だから生も不安定で見極めがたい、とも言えるのだろうか。
これで第3部終わり。
(2024 04/07)

「過去の制作」

第4部も行こう。
改めてみれば妙なタイトルだけど、大森荘蔵に浸かってしまうとこれくらいでは不思議とは思えなくなる(笑)

 日常生活の中での今現在とは、息つく間もないあわただしい概念ではない。一瞬、というようにその間に目をまたたいたり鳥が飛び立つ程度の余裕がある。こののびやかな今現在が生活の中の今現在であり、それは慣習的な今現在として日常語法の中に表現されている。それゆえこの日常の今現在にたどりつくにはその日常語法を糸口にして逆にたどってゆくのが自然であろう。
(p364)


数直線tの一点を凝視して今を捉えようとしても今はすり抜けていく。ここら辺の文章はどことっても大森荘蔵らしい可笑しみある文章。

 そして動かずに静かに立っておれば自分の影はいつも安んじて足下にあるように、人はいつも何かの今最中であり今現在にあるのである。
(p370)


今は数直線上の一点ではなく、浮動する幅を持つ「今最中」。「今最中」(例えば読書中)の中にまた「今最中」(例えばページを見ている最中)があり、それは無限に続く。そして生きている限りは「今最中」から抜け出られない。この動きのある世界は、数直線上の点で考える世界(物理的世界)と重ね合わせできるが、両者は一体化はできない。そこを取り間違えた誤解が、ゼノンの飛ぶ矢のパラドクスであり、ベルクソンが反論し続けた「時間の空間化」であった。
ということで、実はここまでは前段階?ここから標題にある「過去の制作」に移る。

 過去を想起する、というよりはむしろ、想起される経験が過去経験なのである、という意味で想起は「過去」の定義的体験なのである。
(p374)


想起ということが過去ということであり、そこから外れた「過去自体」というものは存在しないのだということ。ここまでは割と入ってくるが、その想起は無謬なものだ、と言われると驚いてしまう。でも、想起自体が過去そのものというテーゼを受け入れるならば、それも受け入れざるを得ない。

 一旦まず夢をみる、そして後刻それを想い出す、というのではなく、夢を想い出すこと、それが夢をみたということなのである。
(p379)

 想起は知覚・行動の再生経験ではなくして過去形の知覚・行動の経験なのである。
(p381)


「泳ぐ経験を想起する」のではなく、「泳いだ経験」。そして普通考えるのとは逆にこうした想起の過去形が「過去」という概念を産んだ、ともいう。
(夢見のところの説明、落語「天狗裁き」の八五郎に聞かせてあげたかった…)
そして、この過去形の経験を作り出すのに重要な役割を持つのが、言葉であり物語である(ここ野家氏につながるポイント)。

 何か言語以前の過去経験を想起し、ついでその想起されている経験の言語表現をするというのではなくて、過去形の文章または物語それ自身が想起される当のものなのである。
(p388)


こうした物語を読むことは、やはりその読む者の過去を想起し制作する、ということになるのだろうか。
(2024 04/14)

「ホーリズムと他我問題」

 おそらく達ちゃんは体験的に了解可能な諸命題をベースにし、それらと当の命題との意味関連を了解することから、やがて「目が見える」という命題の意味を文脈的に了解するに至る。しかしこの命題の意味を体験的に了解できないことはもちろんである。
(p398)


達ちゃんというのは、全盲の子供。彼が周りの子供達とコミュニケーションが取れているという報告を受けて。この図式は確率、抽象的事象、などなどの理解にも応用できる、という。
(2024 04/17)

「脳と意識の無関係」と「時は流れず」


前者は脳と無関係に視覚風景が見える、という主張。同じ主張は前にも出てきていたとは思うが、この第4部の最晩年の時期には、概論的議論より、ピンポイントに重要なまだ大森氏が解決されていないとしている論点を抽出している気がする。
後者から。

 この欺瞞の底には、時間とは動態的なものだという事実誤認があるように思われる。実はその正反対で、時間とは静態的なものなのだ。
(p428)


前に見たゼノンパラドクスなどの章で、「今」を一点の時刻として見るか、「今」を幅を持たせるようにして見るという二つの見方がある。時間は静態的で数直線上的、動態的な物は運動その他の行為。
(2024 04/18)

「時は流れず」続き。

 この生命に溢れた経験を死んだような時間軸上に無理に乗せようとしたので、境界現在地と私が読んだようなグロテスクな現在概念が生まれるようになった。このいわば生命的現在の殺害ともいうべき事態が、人の抱く不安の根源であり、現在とはそんなもんじゃないはずだと呟かせるものなのである。
(p435)

 運動と無縁な過去・未来と、運動に満ちた現在という対極的に異質なものを一本の時間軸に統一して過現未と接続した時間の制作そのもののなかに、「時の流れ」の錯誤の種子が胚胎しているのである。この観点でみれば、この錯誤の発生は不可避であったし、その呪縛が二千年の長きにわたって持続した頑迷さも理解できる。
(p440)


「生命的現在の殺害」とか「頑迷さ」とか過激な言葉も目につくが、このあとの対談で野家氏や丹治氏が述べているように、残り時間が少ないと認識していたからなのだろう。この大森荘蔵セレクションの3大テーマ? 立ち現われ論、視覚等の脳無関係論、そして時間と現在論、の中でこの最後のが自分的には一番興味深く追って行ける、と今は思う。

 運動は現在経験にのみ帰属するのであって、過去と未来は運動とは無関係である。時間順序は静態的な構造であって、それが動く道理がない。ただ想起において運動の軌跡表示が出現することだけが運動とのかかわりのすべてなのである。その軌跡表示が点時刻表示を誘発するところにゼノンの逆説が向けられたのである。
(p447)


この大森氏の立場と、発達心理学における時間概念・運動概念形成、あるいは野家氏の物語り論とは、どう重なってどう違うのだろうか。

「「後の祭り」を祈る-過去は物語り」、「自分と出会う」


これも前にも出てきた、マイケル・ダメットの「酋長の踊り」というパラドックス。酋長が、狩に出た若者たちの無事と成功を、彼らが狩を終わって帰ってくる頃にも願っておどっているというもの。これ、上記の「時は流れず」の論点を導入したら、酋長の踊りは現在の運動で、狩の時間的順序は静態的時間軸なのだ、で解けそうだが、ここでは大森氏は別の解を出す。それが過去制作・裁判と公認の物語り制作という論点。

 過去とは想起によって思い出されるアネクドートの断片を接続を接続して縫ってゆく過去物語りにほかならない。しかし人類はこの情報源が人によって食い違う、必ずしも信頼できないものであることを痛いほど経験してきたはずである。そこで当然、各人の過去情報をスクリーンする公的の手続きをあみ出した。
(p450)


ここで「アネクドート」が出てくるのも楽しい。カントの「物自体」と結びつけた「過去自体」というのを批判し、物語り論を展開するのは、文学論的にも「信頼できない語り手問題」とも絡められそうで楽しい。
あと本人のはもう1編。

ということで、その1編(というか新聞に掲載された生前に活字化された最後のエッセイ)「自分と出会う」。これだけだとなんかよくありがちな感じだが、副題は「-意識こそ人と世界を隔てる元凶」とやはり大森荘蔵。

 事実は、世界其のものが、既に感情的なのである。世界が感情的であって、世界そのものが喜ばしい世界であったり、悲しむべき世界であったりするのである。自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。
(p454-454)


最後になかなか飛んだことを言ってくる。このセレクション全体で一番納得するのが難しい箇所かもしれない。ただ、こういう世界があるという前提で考えることは楽しいが。

座談会から

…もう一度、このセレクションの編者4人を。飯田隆、丹治信春、野家啓一、野矢茂樹。こんな4人の座談会。さすがに細かいところで意見の相違が見られもする。
例えばこんなところ。

 むしろ大森さんが言っているのは、「三角形」の意味は何か、ではなくて、「三角形」の意味を理解しているとはどういうことか、なんです。「三角形」の意味を理解しているとは、何が三角形で何が三角形じゃないかを弁別できることだ。
(p482)


この野矢茂樹の言葉に対して、飯田隆はこのセレクションにもある「言語と集合」にその話の発展したプログラムがある、という。中期の「相貌」という概念は、トークン(言語など記号化されているもの)かタイプ(その意味)か…結果として「相貌」はタイプの様相が強い、という。そして、弁別できるか相貌を見るかは、果たして同じことなのか還元できない何かがあるのか。
(2024 04/21)

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