「言葉の魂の哲学」 古田徹也
講談社選書メチエ 講談社
第1章「ヴェールとしての言葉-言語不信の諸相」 第1節中島敦「文字禍」
文字をずっと見つめていると、それが文字の意味を離れただの線の集まりに見えてくるゲシュタルト崩壊。ゲシュタルト崩壊は、文字だけでなく様々な対象で起こる。「文字禍」の老博士での家や、サルトル「嘔吐」の顔など(顔では意外に結構ゲシュタルト崩壊が起きやすいという…これパレードリア現象(全く違うものを顔などと認識してしまう)と関連ありそう)、他には夏目漱石の「門」や開高健なども取り上げている。ただそれらは文字(音声もそうだが、その違いは?)文字ほど頻繁に起こらず、ゲシュタルト崩壊が酷くなると離人症として認定されるらしい(離人症と日常的なゲシュタルト崩壊とは何か違う気もしているのだが)。
文字(言語)でのゲシュタルト崩壊は何故起きやすいのか、そして文字は通常は何故ひとまとまりの文字として認識できるのか。それを「言語の魂」だと仮に名付けて考察を行うのがこの本の主旨。第2節はホフマンスタール。
(2023 10/15)
第2節ホフマンスタール 「チャンドス卿の手紙」と「帰国者の手紙」と第3節
両方とも前に読んだ岩波文庫版「チャンドス卿の手紙」に収録。「帰国者の手紙」で語り手が世界の連関を一瞬でも取り戻すことができたのはゴッホの複数の絵。両者とも「書簡小説」であるのはこれも意味あるのか。
第1、2節合わせたところでのまとめ(第3節)。
通常のゲシュタルト崩壊では、一瞬文字がただの線の集まりに見えても、しばらくすると文字として戻ってくる。この手の体験なら自分にもよく(たまに?)ある。まだ完全なるゲシュタルト崩壊の一線を、越えていないというべきか。とにかく、古田氏によれば、言葉を実際の物との間にある膜・ヴェールとしてではなく、一つの実在物だとして見ることが連関を取り戻す方法だという。
第2章「魂あるものとしての言葉-ヴィトゲンシュタインの言語論を中心に」
そしてそれを追ったのがヴィトゲンシュタイン。
意味が最初からあるわけではなく、その時々の使われ方が逆に意味を規定する。「すべて」ではないところを次のページ辺りで考察している。「言語の使用が生活と噛み合う、その仕方なのではないだろうか」(p73)
この二つの違いがまだ全然わからないので今は保留…
(2023 10/18)
親しんでいる状態は言語の使用状況(他の言葉によって置き換え可能、親しみを感じている状態が「言語の魂」を感じている状況(他の言葉に置き換え不可)。
この相反する二つの側面の同居が文の理解には必要だとウィトゲンシュタインは言う。理解の側面を分割して考えるのではなく、側面が合わさった全体が理解のかたちを作っている。
第2章の第1節「使用・体験・理解」まで終わったところ。
あと、表紙の常富芳香の「そら」という絵がゲシュタルト崩壊そのもののようでこの本にぴったり。
(2023 10/19)
ゲシュタルト構築とアスペクト
ウィトゲンシュタインは「ゲシュタルト崩壊」よりもどちらかといえば「ゲシュタルト構築」に言及していることが多い。こうして得られる、実際の形は変わらないものの、触れている人間の中で変わっていくかたちのことを彼はアスペクト(相貌)と呼ぶ(ここでの「アスペクト」は、いわゆる言語学でいうところの動作・状態などを表す「アスペクト」とは異なる)。
こうした体験は言葉にも当てはまる。それがはじめにでもふれらた「いずい」とか「むつごい」とかの方言に触れた時の話につながる。
この古田氏が名づける「言葉の立体的理解」。これでおさまるような気がするのだけれど、古田氏は母語の言語習得は必ずしもこの過程を踏むわけではない、と疑義を差し向ける。
アスペクト盲とは
ウィトゲンシュタインはこうしたかたちを取る能力、それを欠いている人を「アスペクト盲」として仮定し、彼らがどのようなものを失っているのかを考察している。どうも自分には、ここで言っているかたちを取るアスペクトの能力以外に言語習得の方法があるとは思えなくて(幼児の一番最初の習得くらいは違うのかもしれないが)、一体ここでウィトゲンシュタインが考えている「アスペクト盲」の人が現実に存在し得るのか気になってしまう。少なくともウィトゲンシュタインは実例を挙げているわけではない。
そのような「何か」がある、と考えるウィリアム・ジェームズについて、ウィトゲンシュタインはこう述べている。
その言葉が一般的なものであればまだわかるけれど、固有名詞が出てこなかったりした場合はそうした「何か」はあると考えてもいいのでは。とも思う(それは哲学的問題ではなく、単に老化の問題なのでは(笑))。
こういった説明読むことで、ウィトゲンシュタインの考えもややはっきりしてくるが…
(2023 10/20)
言語という古都
今朝で第2章を読み終えた。
そうした深みを持っているのが自然言語であり、この後示されるように、ウィトゲンシュタインがエスペラントやベーシック英語(英語を単純化したもの)に批判的(嫌悪感?)を示すのもその理由だし、この章最初の方で示された意味を一通り覚えさせられたロボットが「言語を理解している」と言えるのか問題の結論にもなっている。そう、アスペクト盲という症状が実際あるのかずっと気になっていたが、そういう人を想定するより、ロボットとかを思い浮かべた方がわかりやすいかも(今のAIがどの水準なのかはわからないけれど、たぶんいろいろ聞いてると、人間的思考回路の再構築よりも多量のデータを瞬時に解析して答えを出すという方向にシフトしているらしい)。
ある言葉を聞いて別の言葉を連想する。それは古都の路地を彷徨い歩くのと似ている。その言葉が古いものであればあるほど道は曲がりくねって思いもがけない場所に到着することもある。そして、郊外にいけば(ここで古田氏が挙げているような正書法の制定による自然言語の整備から、エスペラントやベーシック英語などの人工言語、記号論理学上の人工言語(プログラム言語も)などと並んで、今生まれたばかりの新語も並んでいるだろう。そしてそれらは古都の中心に近い方(年代が古い方)から、生活上の必要性によってショートカットする道ができ、広い道の歩道に露店ができ、家は古くなって人が住んでいなくなったものから崩れていき、一方よく使われた家は古都中心部の家のように改築が進み、そうしてだんだん古都に飲み込まれていくだろう。ここ書いていて、今読んでいる「パサージュ論」のオスマン計画のところ思い出したのだが、あの論考の核も同じところにあるのではないか。
アスペクト盲の人や言葉を記憶させられたロボットとは異なり、自然言語を習得した人間はまた、ゲシュタルト崩壊そして離人症を引き起こす可能性をも抱えることにもなる。このことについて、第1章でも名前が上がっていた開高健は次のように述べている。
でも、科学の営みというものは、岩を岩と見ることではなく、どのような鉱石、どのような元素…と凝視し分解していくこちではないか。そう考えていくと、科学者の中にはゲシュタルト崩壊に至った人が多くいそう(名前が出てこないが、砂浜で砂粒数えながら狂気に至った科学者とか)。だからこそ、科学にとっては全体性とアスペクトの渡りが必要とされる(科学者個人の精神性だけでなく、科学そのものの精神性、科学のあり方についても)と思われる。
第2章注では、古田氏の二つの論文、「言葉の絵画性-デイヴィドソンのメタファー論再考」(2012)、「形態学としてのウィトゲンシュタイン哲学-ゲーテとの比較において」(2016)が気になる。前者はドナルド・デイヴィドソンの「生きた隠喩」のどこまでも解釈が確定しないあり方、後者はゲーテが創始した「形態学」をウィトゲンシュタインがどう批判的に継承したか(そもそも「形態学」とは何か)、そこら辺。後者は「これからのウィトゲンシュタイン-刷新と応用のための14篇」(リベルタス出版)に収めされている(前者はお茶の水女子大学の論文集)。
(2023 10/21)
第3章「かたち成すものとしての言葉-カール・クラウスの言語論が示すもの」
カール・クラウス(1874-1936)…雑誌「炬火」を1899年創刊。以後死の直前まで刊行を続ける。確か、岩波文庫「世紀末ウィーン短篇集」に短編1つあったのと、ベンヤミンコレクションにクラウスに対する論評があったのを、自分は読んだと思う。あと、この本のウィトゲンシュタインとの関連で言うと、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の一世代上で、姉が「炬火」を全巻揃えていたのと、本人もクラウスの影響を公言している。
1章で見た「言語不信」のホフマンスタールやマウトナーらは、言語をその先にある「真実の世界」との間の媒体と捉え、その不自由さに言及していた。それに対しクラウスは言語の創造的可能性を見ていた(この辺、本当に彼らは対立していたのか、あとがきでのホフマンスタールの「損な役回り」発言を含めて再考要)。
ここで「かたちを成す」とあるのは、前章で出てきた言葉の立方体的構造、あるいは「形態学」と共通するものだろう。
再びホフマンスタールとの対比。ホフマンスタールの場合も言葉が際立つ場面について語ってはいるが、それは「日常生活言語」と「詩の言語」に二分した後者のみ、それも一生に一度あるかないかのこと(言葉ではないが、「帰国者の手紙」のゴッホの絵とか)。一方クラウスは、伝達と形成の二つの側面を言語に認め、日常の言語においてもときには(一生に一度とかではなく)形成の働きをすると考えている。
(2023 10/22)
言葉の実習
常套句ではなく、しっくりくる言葉を探し続けること、また常套句であってもその使用理由を常に確かめつつ使うこと、これらがクラウスが「炬火」などで行っていた〈言葉の実習〉に他ならない。
常套句、プロパガンダ、マスメディアの言説、そして最近ではSNSの意見形成、これらは人々の判断停止を誘うが、そこに迷い(懐疑)を差し入れ、〈しっくりくる〉言葉を探す営みは、詩の言葉のように稀有な経験ではなく「不愉快なとき」(ウィトゲンシュタイン)かもしれないが、そここそが「最も重要なことを考えているとき」でもある。
これで読み終わり。予想よりちょっと時間かかったかな?
(2023 10/23)
関連書籍
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?