見出し画像

「言葉の魂の哲学」 古田徹也

講談社選書メチエ 講談社


第1章「ヴェールとしての言葉-言語不信の諸相」 第1節中島敦「文字禍」

 つまり、彼(「文字禍」の老博士)は、一方では自分たちの知識や思考が文字なしでは立ち行かないことを理解しつつ、他方では、その状態に甘んじることができない。文字で表せなかったものは存在を失うにもかかわらず、文字で表されたものには直接触れることができなくなる。それがもどかしいのである。
 以上のように、「文字禍」という物語が〈文字のゲシュタルト崩壊〉という現象をきっかけに描き出すのは、まず、現実の諸事物が文字で表され、それらがいわば言語的なものになる事態が蔓延している、というモチーフである。
(p28)


文字をずっと見つめていると、それが文字の意味を離れただの線の集まりに見えてくるゲシュタルト崩壊。ゲシュタルト崩壊は、文字だけでなく様々な対象で起こる。「文字禍」の老博士での家や、サルトル「嘔吐」の顔など(顔では意外に結構ゲシュタルト崩壊が起きやすいという…これパレードリア現象(全く違うものを顔などと認識してしまう)と関連ありそう)、他には夏目漱石の「門」や開高健なども取り上げている。ただそれらは文字(音声もそうだが、その違いは?)文字ほど頻繁に起こらず、ゲシュタルト崩壊が酷くなると離人症として認定されるらしい(離人症と日常的なゲシュタルト崩壊とは何か違う気もしているのだが)。
文字(言語)でのゲシュタルト崩壊は何故起きやすいのか、そして文字は通常は何故ひとまとまりの文字として認識できるのか。それを「言語の魂」だと仮に名付けて考察を行うのがこの本の主旨。第2節はホフマンスタール。
(2023 10/15)

第2節ホフマンスタール 「チャンドス卿の手紙」と「帰国者の手紙」と第3節


両方とも前に読んだ岩波文庫版「チャンドス卿の手紙」に収録。「帰国者の手紙」で語り手が世界の連関を一瞬でも取り戻すことができたのはゴッホの複数の絵。両者とも「書簡小説」であるのはこれも意味あるのか。
第1、2節合わせたところでのまとめ(第3節)。

 この言語観(言葉は自己と外界を取り結ぶというより分断する)が、言葉がゲシュタルト崩壊を起こした後に形成されているという点が重要である。
(p61)

 チャンドスが障害としての言葉の側面に意識を向けるときには、それが妨げているものへの渇望、すなわち、すべてが連関し合う親密な世界を求める気持ちが裏側にある。
(p62)

 言葉のゲシュタルト崩壊は、言葉に親しみ過ぎること、近づき過ぎることと不可分な関係にある。言葉に深く注目し、その存在を強く感じれば感じるほど、単なる物(文字、音声)が意味をもつということが、いかにも不自然に思えてくるのである。
(p64)


通常のゲシュタルト崩壊では、一瞬文字がただの線の集まりに見えても、しばらくすると文字として戻ってくる。この手の体験なら自分にもよく(たまに?)ある。まだ完全なるゲシュタルト崩壊の一線を、越えていないというべきか。とにかく、古田氏によれば、言葉を実際の物との間にある膜・ヴェールとしてではなく、一つの実在物だとして見ることが連関を取り戻す方法だという。

第2章「魂あるものとしての言葉-ヴィトゲンシュタインの言語論を中心に」


そしてそれを追ったのがヴィトゲンシュタイン。

 「意味」という言葉が用いられる多くのケースで-すべてのケースではないとしても-この言葉は次のように説明できる。言葉の意味とは、言語内におけるその使われ方である、と。
(p71 「哲学探究」)


意味が最初からあるわけではなく、その時々の使われ方が逆に意味を規定する。「すべて」ではないところを次のページ辺りで考察している。「言語の使用が生活と噛み合う、その仕方なのではないだろうか」(p73)
この二つの違いがまだ全然わからないので今は保留…
(2023 10/18)

 いずれにせよ、重要なのは、親しんでいることと親しみを感じることは同じではない、という点である。
(p81)


親しんでいる状態は言語の使用状況(他の言葉によって置き換え可能、親しみを感じている状態が「言語の魂」を感じている状況(他の言葉に置き換え不可)。

 我々が文の理解について語るのは、それが、同じことを述べている別の文に置き換えられるという意味においてであるが、しかしまた、それが他のいかなる文にも置き換えられないという意味においてでもある。
(p88 「哲学探究」)


この相反する二つの側面の同居が文の理解には必要だとウィトゲンシュタインは言う。理解の側面を分割して考えるのではなく、側面が合わさった全体が理解のかたちを作っている。
第2章の第1節「使用・体験・理解」まで終わったところ。
あと、表紙の常富芳香の「そら」という絵がゲシュタルト崩壊そのもののようでこの本にぴったり。
(2023 10/19)

ゲシュタルト構築とアスペクト

 ピカソのある絵画について私は、自分にはこれは人間として見えていない、と言うことがありうるだろう。あるいは、他の絵画について、かつてはこの絵画が表しているものをそれとして見ることができなかったけれど、いまはそう見えている、ということがありうるだろう。このことは実際、長い間これは到底ひとつのまとまりとして聞こえなかったが、いまはそう聞こえている、ということに似ている。かつてはこれは途切れてばかりの短い音の断片が続いているだけに思えたが、-いまは有機的全体として聞こえてくる。(ブルックナー。)
(p94-95 「ラスト・ライティングス1」)


ウィトゲンシュタインは「ゲシュタルト崩壊」よりもどちらかといえば「ゲシュタルト構築」に言及していることが多い。こうして得られる、実際の形は変わらないものの、触れている人間の中で変わっていくかたちのことを彼はアスペクト(相貌)と呼ぶ(ここでの「アスペクト」は、いわゆる言語学でいうところの動作・状態などを表す「アスペクト」とは異なる)。
こうした体験は言葉にも当てはまる。それがはじめにでもふれらた「いずい」とか「むつごい」とかの方言に触れた時の話につながる。

 我々はまず、類似しつつ別の意味をもった様々な言葉を順に辿っていく。そして、それらを見渡すことによって、そこに一個の有機的全体を見る展望が得られる。すなわち、多様な意味を側面や背面にもちながら、そのつど特定の意味が前面に立つ多面体それ自体として、言葉の輪郭を捉えることができるのである。
(p99)


この古田氏が名づける「言葉の立体的理解」。これでおさまるような気がするのだけれど、古田氏は母語の言語習得は必ずしもこの過程を踏むわけではない、と疑義を差し向ける。

アスペクト盲とは

ウィトゲンシュタインはこうしたかたちを取る能力、それを欠いている人を「アスペクト盲」として仮定し、彼らがどのようなものを失っているのかを考察している。どうも自分には、ここで言っているかたちを取るアスペクトの能力以外に言語習得の方法があるとは思えなくて(幼児の一番最初の習得くらいは違うのかもしれないが)、一体ここでウィトゲンシュタインが考えている「アスペクト盲」の人が現実に存在し得るのか気になってしまう。少なくともウィトゲンシュタインは実例を挙げているわけではない。

 (何か言葉を思い出そうとしている時に、そこにはその言葉に対応する「何か」があるという考え方は)それはあたかも、『不思議の国のアリス』のチェシャ猫が笑みだけを残して姿を消す、というのと同じ、全くのナンセンスではないだろうか。
(p114)


そのような「何か」がある、と考えるウィリアム・ジェームズについて、ウィトゲンシュタインはこう述べている。

 ジェームズは本当はこう言いたいのだ。「何という不思議な体験! その言葉はまだそこにないのだが、それでも、ある意味ですでにそこにある。あるいは、その言葉以外に成熟していくことがありえない何かがそこにある」-しかし、これは体験でも何でもない。「それが喉まで出かかっている」という言葉はいかなる体験も表現していないし、単にジェームズがその言葉に奇妙な解釈を与えただけなのだ。
(p115 「ラスト・ライティングス」)


その言葉が一般的なものであればまだわかるけれど、固有名詞が出てこなかったりした場合はそうした「何か」はあると考えてもいいのでは。とも思う(それは哲学的問題ではなく、単に老化の問題なのでは(笑))。

 しかし、これらの言葉がなぜしっくりこないのか、常に判断したり説明したりする必要はない。それは単にまだしっくりこないという以外の何ものでもない。私はさらに探すが満足しない。最後に私は安らぎを覚えて満足する。探すとはまさにこのようなことであり、見出だすとはまさにこのようなことなのである。
(p119)


こういった説明読むことで、ウィトゲンシュタインの考えもややはっきりしてくるが…
(2023 10/20)

言語という古都

今朝で第2章を読み終えた。

 長い歴史をもち、人々が多様な生活の文脈で用いてきた言葉の多くは、他の様々な言葉に置き換えうるという意味での多義性を自然と備えたものになっている。そして、少なくともそうした言葉に関しては、言葉のアスペクト変化を体験可能だというのは、その言葉を理解していることの欠かせない条件だと言える。
(p128)


そうした深みを持っているのが自然言語であり、この後示されるように、ウィトゲンシュタインがエスペラントやベーシック英語(英語を単純化したもの)に批判的(嫌悪感?)を示すのもその理由だし、この章最初の方で示された意味を一通り覚えさせられたロボットが「言語を理解している」と言えるのか問題の結論にもなっている。そう、アスペクト盲という症状が実際あるのかずっと気になっていたが、そういう人を想定するより、ロボットとかを思い浮かべた方がわかりやすいかも(今のAIがどの水準なのかはわからないけれど、たぶんいろいろ聞いてると、人間的思考回路の再構築よりも多量のデータを瞬時に解析して答えを出すという方向にシフトしているらしい)。

 我々は自分たちの言語を古都と見なすことができる。すなわち、路地や広場、古い家や新しい家、様々な時代に建て増しされた家々が入り混じったひとつの全体である。そしてこれが、規則的な直線道路と同じかたちの家々からなる郊外に囲まれているのである。
(p142 「哲学探究」)


ある言葉を聞いて別の言葉を連想する。それは古都の路地を彷徨い歩くのと似ている。その言葉が古いものであればあるほど道は曲がりくねって思いもがけない場所に到着することもある。そして、郊外にいけば(ここで古田氏が挙げているような正書法の制定による自然言語の整備から、エスペラントやベーシック英語などの人工言語、記号論理学上の人工言語(プログラム言語も)などと並んで、今生まれたばかりの新語も並んでいるだろう。そしてそれらは古都の中心に近い方(年代が古い方)から、生活上の必要性によってショートカットする道ができ、広い道の歩道に露店ができ、家は古くなって人が住んでいなくなったものから崩れていき、一方よく使われた家は古都中心部の家のように改築が進み、そうしてだんだん古都に飲み込まれていくだろう。ここ書いていて、今読んでいる「パサージュ論」のオスマン計画のところ思い出したのだが、あの論考の核も同じところにあるのではないか。

アスペクト盲の人や言葉を記憶させられたロボットとは異なり、自然言語を習得した人間はまた、ゲシュタルト崩壊そして離人症を引き起こす可能性をも抱えることにもなる。このことについて、第1章でも名前が上がっていた開高健は次のように述べている。

 文字は凝視に耐えられない。文字はそこに一点たちどまって凝視してはならない。それは一瞬、瞥見した瞬間になにごとかを感知し、あとは眼をそむけなければならない。それとたわむれてはならない。チューイングガムのように噛みしめ、しゃぶりつくしてはならない。初見の閃光や果汁をこそ味わうべきであって、そのあとはそっとしておかなければならない。岩はあくまでも岩として徹底的に眺めながらも同時にそれは流れのなかのもの、空や、森や、岸や、白い泡や、閃く魚影などとの絶妙な組み合わせのなかの一要素として眺めなければならないのである。
(p157 「私の文章修行」『食卓の花束』)

 むしろ開高が勧めるのは、いわば眼を次々に転じて、その言葉がどのような流れのなかに位置しているか、他のどのようなものと組み合わされ、連関しているかを見渡していくことである。つまり、一つ所に留まらず、いわば次々にアスペクトを渡っていくことではじめて、言葉の輪郭というものを捉えることができる。
(p158)


でも、科学の営みというものは、岩を岩と見ることではなく、どのような鉱石、どのような元素…と凝視し分解していくこちではないか。そう考えていくと、科学者の中にはゲシュタルト崩壊に至った人が多くいそう(名前が出てこないが、砂浜で砂粒数えながら狂気に至った科学者とか)。だからこそ、科学にとっては全体性とアスペクトの渡りが必要とされる(科学者個人の精神性だけでなく、科学そのものの精神性、科学のあり方についても)と思われる。

第2章注では、古田氏の二つの論文、「言葉の絵画性-デイヴィドソンのメタファー論再考」(2012)、「形態学としてのウィトゲンシュタイン哲学-ゲーテとの比較において」(2016)が気になる。前者はドナルド・デイヴィドソンの「生きた隠喩」のどこまでも解釈が確定しないあり方、後者はゲーテが創始した「形態学」をウィトゲンシュタインがどう批判的に継承したか(そもそも「形態学」とは何か)、そこら辺。後者は「これからのウィトゲンシュタイン-刷新と応用のための14篇」(リベルタス出版)に収めされている(前者はお茶の水女子大学の論文集)。
(2023 10/21)

第3章「かたち成すものとしての言葉-カール・クラウスの言語論が示すもの」


カール・クラウス(1874-1936)…雑誌「炬火」を1899年創刊。以後死の直前まで刊行を続ける。確か、岩波文庫「世紀末ウィーン短篇集」に短編1つあったのと、ベンヤミンコレクションにクラウスに対する論評があったのを、自分は読んだと思う。あと、この本のウィトゲンシュタインとの関連で言うと、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の一世代上で、姉が「炬火」を全巻揃えていたのと、本人もクラウスの影響を公言している。

 クラウスによれば、我々の多くは言葉の肌理の粗さを嘆くことができるほど言葉を限界まで使いこなせてはいない。むしろ、個々の自然言語は人の手に余るほど複雑で奥深く、その巨大な有機体には汲めども尽きない豊かな可能性が広がっている。
(p168)

 諸々の規則は、なるほど何かしらの言語感覚から抽出されたものであるが、より繊細な言語感覚は、そうした規則が崩れる際にこそ真価を発揮すると言えるかもしれない
(p169 「言葉」)


1章で見た「言語不信」のホフマンスタールやマウトナーらは、言語をその先にある「真実の世界」との間の媒体と捉え、その不自由さに言及していた。それに対しクラウスは言語の創造的可能性を見ていた(この辺、本当に彼らは対立していたのか、あとがきでのホフマンスタールの「損な役回り」発言を含めて再考要)。

 クラウスによれば、個々の言葉には、思考内容などを伝達するという働きと、もうひとつ、それ自体がかたちを成すという働きがある。
(p178)


ここで「かたちを成す」とあるのは、前章で出てきた言葉の立方体的構造、あるいは「形態学」と共通するものだろう。

 言葉は文脈を構成する一部であるが、それは必ずしも、ひとつの文脈のなかに完全に埋没し、かき消えてしまうということを意味しない。言葉はしばしば、様々な連想や想像を喚起するその豊かな力によって、物語が展開して新たな文脈が開かれるきっかけともなりうるのである。
(p184)


再びホフマンスタールとの対比。ホフマンスタールの場合も言葉が際立つ場面について語ってはいるが、それは「日常生活言語」と「詩の言語」に二分した後者のみ、それも一生に一度あるかないかのこと(言葉ではないが、「帰国者の手紙」のゴッホの絵とか)。一方クラウスは、伝達と形成の二つの側面を言語に認め、日常の言語においてもときには(一生に一度とかではなく)形成の働きをすると考えている。
(2023 10/22)

言葉の実習

 言葉を選び取るというのはそれ自体が人のとるべき一個の責任であるという。彼がそう特徴づけるのは、さしあたり、我々はしっくりくる言葉を探す努力を放棄できるという、単純な理由による。
(p201)

 もしも人類が常套句をもたなければ、人類に武器は無用になるだろうに。
(p204)


常套句ではなく、しっくりくる言葉を探し続けること、また常套句であってもその使用理由を常に確かめつつ使うこと、これらがクラウスが「炬火」などで行っていた〈言葉の実習〉に他ならない。

 我々に受け継がれた文化遺産としての言語には、無数の多義語が含まれ、互いに複雑に連関し合っているということである。〈しっくりこない〉〈どうも違う〉といった迷いは、類似した言葉の間でしか生まれない。我々は、迷い、ためらうことを可能にする言語を贈られているのである。
(p210)


常套句、プロパガンダ、マスメディアの言説、そして最近ではSNSの意見形成、これらは人々の判断停止を誘うが、そこに迷い(懐疑)を差し入れ、〈しっくりくる〉言葉を探す営みは、詩の言葉のように稀有な経験ではなく「不愉快なとき」(ウィトゲンシュタイン)かもしれないが、そここそが「最も重要なことを考えているとき」でもある。

 その違和感に蓋をせずに、言葉と言葉の間で迷いながら、ぴったりの言葉が訪れるのを待つというのは、世界への懐疑を呼び込む縁に立つ危険を引き受けることでもあるが、寛容表現を活性化させ、決まり文句の鮮度を高めて、言葉を生かす可能性を拓くことでもある。
(p227)


これで読み終わり。予想よりちょっと時間かかったかな?
(2023 10/23)

関連書籍


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?