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「チャンドス卿の手紙」 フーゴ・フォン・ホフマンスタール

檜山哲彦 訳  岩波文庫  岩波書店

早稲田五十嵐書店で購入。


「チャンドス卿の手紙」

 個々の言葉はわたしのまわりを浮遊し、凝固して眼となり、わたしをじっと見つめ、わたしもまたそれに見入らざるをえないのです。それははてしなく旋回する渦であり、のぞきこむと眩暈をおこし、突きぬけてゆくと、その先は虚無なのです。
(p111)


この「チャンドス卿の手紙」は前半と後半に別れる。上記の文は言葉の不可能性を論じた前半部分の最後。・・・でも、前半と後半ってそんなにきれいに別れているものなのだろうか?例えば、「見入らざるをえない」というところ、見入った為に、後半の恍惚に繋がるのではないか?とも思う。ホフマンスタールの作品はこうした名付けられない何かを見せているものが多い。それが良いものであれ、悪いもの(「第六七二夜のメルヘン」)であっても。
(2010 06/08)

内側のような外側のような…


今日はホフマンスタールの短編集から、「騎兵物語」と「道と出会い」を。
両者に共通すると感じたのは、外を歩いていたと思っていたのに、実は自分の内部を歩いていた…という感触。とある敵方らしい村に入ってやったらめったら時間が拡大していく(「騎兵物語」)ところなどその典型。先取りというか前触れというか単に気付くのが遅かった…というべきか…
それを軽いエッセイ調で書いたのが「道と出会い」。出会いの中に抱擁が隠されているのだとか…
(2010 06/29)

夜と昼の間に…


ホフマンスタールの短編集、今日読んだ2つの短編のキーワードは「昼と夜」。要するに、夜には情愛が燃え上がる…というわけだが、完全に夜でも、完全に昼でもないのが人間というもの。その違い、差にみんな迷う。
最初の短編は幻想怪奇風、次の短編は少女が青年に変装する喜劇風。変装する喜劇ってなんか喜劇の典型の一つって感じであるが、ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスのゴールデンコンビの喜劇にもそんな筋立てがあったような…「薔薇の騎士」?…
(2010 07/01)

人間は鍵盤?


今日は「恐れについて」と「帰国者からの手紙」(の第一の手紙)。この間読んだ「詩について」でもあったが、人間は一種の鍵盤のような存在で、誰か或いは何モノかがその鍵盤をかき鳴らして立去っていく…そういう思考の枠組みがホフマンスタールにはあるようだ。
自存在と他の存在との境界面を探っている感じでなかなか読み応えがある…ホフマンスタール。「帰国者の手紙」では、ちょうどプルーストのマドレーヌのような泉が出てきたし…

これまでのところの引用文。

 ぼくらの自我をぼくらは所有しているわけではない。自我は外から吹き寄せてくる。・・・(中略)・・・ぼくらは鳩小屋以上のものではありはしまい。
(p130)

 蔭になったさまざまの裂け目が、その暗黒の部分が、いくえにも重なった生なのであり、密集がすぎて光をうしない、充溢がすぎて窒息してしまった生なのだ。
(p153)

 ぼくはただピアノの鍵盤でしかなく、弾くのは見も知らぬ手だ。
(p184)


(2010 07/05)

「帰国者の手紙」


「帰国者の手紙」の第二・三・四の手紙。第二・三の手紙では、ちょうど同時期(たぶん)マックス・ウェーバーが「官僚制の鉄の檻」と評した自体が以下のように語られる。

 つまりどのひとつをとってみても別のものにぴたりと寸法が合うということだが、それというのも、人々のすることなすことなにひとつとしてそれじたいにおいては内部に統一がないからだ。
(p190-191)

 

p194のくらげの比喩にもあるが、要するにいろいろなことを考えなければならなくなった現代(といってもこの当時のドイツ・オーストリア)に対する批判であろう。この批判をする為に「帰国者」という立ち位置を使い、他の国や昔のドイツ・オーストリアという比較対象と絶えず比較しながら文章を進めている。
第四の手紙はゴッホの絵を見て、そして第五は・・・あ、まだ読んでない(笑)…
(2010 07/06)

ちなみに第5の手紙は色彩論…って書いてあったけど、波論だな。あれは(笑)。
(2010 07/07)

真昼のランプの光


「ギリシャの瞬間」読み終えて、これでホフマンスタールの短篇集全て読み終わった。読む前に思い込んでいたよりなかなか面白かった。マンにも似た繊細で言葉を組み立てていく感じ。もっと小難しくて、いろんな素養がないと太刀打ちできないかと思っていたが、あんまり素養ない自分?でも十分楽しめた。

とは、言っても、「ギリシャの瞬間」はかなりハードル高し。ギリシャ文化の教養ではなくて、ホフマンスタールの度を越えた共感能力が最初から最後まで最大出力(笑)。

 いずれかの顔もわれわれをじっと見ることによってのみ生きるかのようだ。
(p266)


今まで関わり合いながら去って行った多くの人達。それらをギリシャで思い出しながら、ホフマンスタールはそう考える。その中にはランボーらしい詩人の姿もある。 
この辺りはまだついていける。第三部の立像の小部屋での共感体験は、まあ、そうなった人でないとわからないでしょう、という感じ。標題に掲げた「真昼のランプの光」という言葉はその体験中、自らを失いつつ消え行く自らを比喩したもの。こうやって高揚感の直中で終わりを迎える作品(エッセーとしても、小説と考えても)は珍しいのではないか。ひょっとして、熱中症で倒れそうな時、こんな感じなのかなと思いつつ、不思議な読後感を楽しんだ。 
(2010 07/10)

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