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「普遍論争」 山内志朗

平凡社ライブラリー  平凡社

山内氏はもともとはライプニッツから哲学に入った人。それがこの普遍論争の本の執筆等を機に、中世西洋哲学やイスラーム哲学に引っ張られていったらしい。
巻末に中世西洋哲学やイスラーム思想家の人物索引ある。


中世哲学と近代哲学


さて、この本の主張は、オッカムとスコトゥスらで中世哲学の主要なテーマである唯名論か実在論かの論争が起きた、とされる中世哲学の流れの把握それ自体が、実はその後の近代哲学期に半ば作られた図式なのだ、というところ。自分の記憶の遠くの方にぎりぎり引っかかっていた普遍論争やオッカムやスコトゥスらが「作られた伝統だ」と言われたのでちょっと唖然・・・
(2016 03/12)

アベラールの考えは普遍なイデアが実在するのではなく、そう呼ばれることの集合なのだということ。そういうくくり?を「態度」と呼んでいて、ここからの話の展開は普遍ではなく態度について、になるらしい…
(2016 05/17)

現実的普遍

たまに「普遍論争」も夜にちびちびやってる。昨夜は13世紀に入ってアヴィセンナやアヴェロエスなどのイスラム哲学が流入し支配的になる(流入時期はアヴェロエス→アヴィセンナ)こと、問題にされている普遍とは「現実的普遍」の方だということ、唯名論と実在論の対立という構図は実は語られている場所が異なっているだけ(前者が論理学、後者が形而上学)ということ、など。
あ、真ん中の「現実的普遍」というのはまだ理解できてないので、ちと保留…

保留しといたヤツなんだけど、あまりにも誤りなので一言、中世普遍論争で問題となっているのは「現実的普遍」(複数の述語になれるもの)ではなく、共通本性(複数のものから何か共通するものを導き出す)の方。そういうものが普遍と言えるのか、そもそもそれはどういったものなのかがポイント(みたい)。
(2016 06/08)

「普遍論争」も進んできて100ページ。コラム?の3種の普遍のまとめは最初に読みたかったわかりやすさ。第1章の実在論、唯名論から、第2章の見えるもの、見えざるものへと違う角度からこの論争を見ていくという構成みたい。
(2016 06/10)

共約不可能性と紐帯

 ある場面で共約不可能性を想定できるという指摘が意味を持つこともありますが、問題は先にあります。そのような共約不可能性が見出だされる場合の紐帯がどのようにして可能かということなのです。
(p124)


共約不可能性とは元々は数学の用語。山内氏はそれをこの中世の「見えるもの」と「見えざるもの」の間に見た。それは記号の問題であり、記号を成り立たせているものが紐帯なのだろう。この辺りから論は山内氏の直観を道しるべとする。

 問題は第三者となるもの、媒介、紐帯が心的作用でしかありえないのかということです。第三者となるものは心的作用であるといってもすぐに不都合が生じるのではありません。しかし、私は別に考えます。
(p136-137)


紐帯が心的作用(想像力)でないとしたら、それは何か。こう考えるのは山内氏だけでなく、ハーマンという近代のドイツ思想家も同じような文を残している。
(2016 06/20)

3つの代表


「普遍論争」、今は第3章の代表論のところ。
代表には3つあるという。
質料的代表、単純代表、個別的代表。

質料的代表とは「人間は漢字である」というような、今では「」で囲んで書き表されるもの。
単純代表とは「人間とは種である」のようなもの。人間という字の説明でもなければ、一つ一つの個別に意味が還元されるわけでもない。
個別的代表は「人間は走る」というのが例文。プラトンもアリストテレスなど始め、いろいろな個体に還元できる。

今までスコトゥスとオッカム、実在論と唯名論の対立だと思われていたものが、実は代表という概念の違いから生じたものだとしている。焦点となるのは単純代表という概念の取り扱い。単純代表が必要だとする実在論と、単純代表が不要だとする唯名論。ことは単純ではない。
(2016 06/24)

オッカムとスコトゥス


14世紀くらいまではオッカムが唯名論者ではなく中間論者(単純代表は認めるが共通本性は認めない)とされていて、そのすぐ後のビュリダンから唯名論が始まるという認識だったのが、15世紀くらいからオッカムから唯名論が始まり尚且つその理解もこの本の冒頭にあったような紋切型になっていく。それには大学の抗争の影響もあったようだ。
それでも著者山内氏はオッカムが実在論とは大きく異なる視点を出したと考えており、それとスコトゥスとの違いを考えていこうとしている。
次の章は20世紀の中世哲学でこれまでの論とどう絡まるのか楽しみ。

中世哲学巡礼とりあえず終了


というわけで、「普遍論争」人名事典以外は読み終え。人名事典は拾い読みはしてるけど…まあ、それで…
この間の記録で書いたように、残っていたのは第4章。近代以降に中世哲学はどうみられているかという視点から。中世と近代は連続しているはずなのに、そうは思われていないのは近代初期のユマニスト達が中世と近代を断絶したものと意識し広めたから、と著者は言う。ではその著者の見立てとは…

 いわゆるヨーロッパの哲学がカロリング・ルネサンスに始まる一つの大きな流れであって、その中で、十四世紀初頭のスコラ哲学の中に一つの切断が見られ、そして十八世紀から十九にかけてもう一つの切断があるとするとどうなるのでしょうか。
(p262-263)


切断2箇所がとても気になる。デカルトやライプニッツなどにも流れ込む中世哲学。また科学哲学?の分野でも中世と近代の連続性が研究されてきている。

最後は巡礼としての中世哲学研究について。

 身体感覚で話をすると、中世哲学を学ぶというのは、文字通り巡礼である。一人一人の思想家の墓に詣でて、花を捧げ、祈り、線香を上げることと、ラテン語のテキストを読むことは、事象として同一のことだ。・・・(中略)・・・テキストを読むことは霊場巡りでもあるのだ。
 巡礼の目的地はいつも自分と出会うためにあり、自分とともにある。
(p324)


(2016 06/28)

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