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「中世哲学入門-存在の海をめぐる思想史」 山内志朗

ちくま新書  筑摩書房


中世哲学とその出会いと


ギリシャ哲学とキリスト教神学を綜合したのが中世哲学だと言われるが、「木に竹を接ぐことはできない」(p16)ように、現実の中世哲学、例えば「神学大全」見ても並列はしているけれど綜合まではしていない、という。また中世スコラ哲学というのも誤解を生む名称で、実際はスコラ(教会付属の神学校)ではなく、大学等で行われてきた。スコラ神学とスコラ哲学というのもまた違うもの。ただ、「現象学の源流」ブレンターノ、ハイデガーやヴェーバーやゾンバルトなどが中世哲学に新たな意味を与えてきた。

序論を終え、ここで話は山内氏の中世哲学事始めな話題へ移る。ドゥンス・スコトゥス「存在の一義性」という本の翻訳を哲学書房の中野幹隆氏に依頼される。1986年春のこと。その年の夏頃、近刊案内にこの本が出ていて、参考にしようと思ったら、自分が翻訳する予定の本そのものだったという。p31に出ている「普遍論争」というのは、あの平凡社ライブラリーの本のことだろうか。

 両者(哲学とキリスト教神学)の絶対的懸隔と調停の不可能性に対する絶望と決断なしには入り込んではいけないことに気づいていなかった。中世の神学者は、そういった不可能性と絶望を両方背負って神学を生き抜いたように思う。これは最初に書いておかないといけない。不可能性を認識すること、そして不可能性に対する心の構えが祈りであることを知ることこそ、中世哲学に入るための前提なのである。
(p33)


現代の山内氏含む中世哲学を読む人たちだけでなく、中世人自体もそこに絶望するらしい。ということは同じ立ち位置で見られるということか。
(2023 06/30)

第1章「中世哲学の手前で」の第2節「存在とは何か」

 存在ということを独断的に語るとすれば、あるとかないとかいう次元の事柄というよりも、事物であれ生命であれ出来事であれ、世界の中に登場して世界を構成し始め、そのように立ち現れていて、そう記述し、語り、伝えられることが「存在」ということではないのか。
(p39)


「存在」というとどっしり構えて動かないもの、というイメージがあるのだが、こうして山内氏が提示する「存在」はもっと動的なものであるらしい。
ハイデガーもまた中世哲学にはまり、そこからのもがきから「存在と時間」に辿り着いた、というのが山内氏の見立て。

 中世哲学を空虚だと否定し、存在忘却に陥っていると批判しながらも、ハイデガーの傷跡である以上、中世スコラ哲学を学ぶ必要があるのかもしれないと思ったのである。私は気づかないうちに中世の深い森に入り込み始めていた。哲学とは人生の傷跡である。
(p41)


最後の一文に痺れてしまうが…
この本には「コラム」という四角の線で囲まれた用語解説が出てくる。最初は〈理虚的存在〉というもの。この言葉は山内氏の造語らしいのだが、知性作用そのものを知性が対象化する働き。これに着目することが13世紀半ばの〈認識論的転回〉なのだという人もいる。この本のもう少し先、p77の同じ語のコラムに寄せて、この著書は〈理虚的存在〉への賛歌であるとも書いてある。
(2023 07/06)

第2章「中世哲学の姿」


実在論と唯名論、それぞれも誤解されていることが多いとはいうが、それより実在論と唯名論を対立させる枠組を避けたい、と山内氏は言う。

 とりあえず実在論と唯名論という区分を使い続けるが、それはあくまで作業仮設であって、氷の舟のように最後は消えていくべきものだと思う。
(p56)

 実在論的傾向は普遍論争を認識の媒介の問題として捉え、その媒介を因果論的に説明しようとする場面に現れる。実体論を踏まえるのではなく、別の直感的認識の枠組みでは媒介なしの説明が有力となり、その場面で唯名論的傾向が表れてくる。十四世紀以降、唯名論的傾向、媒介不要論が主流になってくる。この十三世紀に生じた変動こそ〈認識論的転回〉と呼ぶべき事件なのである。
(p64)


普遍とは述語。普遍論争とは認識論の問題。
(2023 07/12)

今のところの見取り図

 まず普遍論争において「普遍は第一志向か、それとも第二志向か」ということが問われ、第二志向であるというのが十三世紀的な解答であり、ここから普遍論争が姿を現すと言ってよい。この場面では、実在論か唯名論かという対立は、そういった立場の名称があるかないかということではなく、ほぼ全員が第二志向と考えているので、二項対立的な論争にはならない。
 十五世紀はこういった道具立てを忘却して、普遍は名称か事物かを問うものと理解してしまった。その時点で実在論と唯名論という対比から構成される普遍論争が出来上がるのである。
(p77-78)

 唯名論についての概略的なイメージは、存在論、認識論、倫理学、神学の場面で、直接性を重視する傾向であり、直接的でないものとは、途中にくる媒介やメディアや組織を仲介することでしか物事は成立しないとする立場に対抗するものである。
(p84)


この唯名論の統一テーゼ。テーゼ先有りで上記さまざまな場面へ対応していったのか。それとも各場面で行わられていくのを、後で誰かが統一したのか。

 スコトゥスの認識論はアウグスティヌス的な枠組みを前提し、因果的に認識過程を再構成するよりはむしろ事物が目の前にあるのかどうか、人であれば対面的な出会いになっているかどうかに焦点があった。
(p86)

 抽象的認識においては、知性は個物が不在のときも実在しないときにも当の個物を表象できるということが重要な特徴である。
(p87)


オッカムは媒介を前提とする可知的形象を不要と考え、その代わりにハビトゥスを置いた。このハビトゥスは、ブルデューとは関係なく、後のイギリス経験論につながっていく概念。

 直観的認識は、暗黙的に現前の確認を要請している。人間は幻覚を見る場合も、幻覚を観察者として体験しながら、第三者的な視点から外なる視点を確保して幻覚か否かを同時的に判断することはできない。
(p89)

第3章「存在の問題」

 事物の成立する相においては否定と肯定がないまぜになっているのが普通だが、ギリシア的知性は二つの相を峻別し、その形式を基本とした。「存在」という概念がインド・ゲルマン的な素性であること、そして存在概念が概念の素性とは独立に世界哲学において中心概念となりうるのかは考え直してもよいことである。
(p102)


これ、サピア・ウォーフ仮説で考えてみたらどうだろう。ヨーロッパ中世の哲学はイスラームから影響を受けているが、「存在」という語はアラビア語にも中国語にもないという。

 山田晶はエッセを物が現実的に存在していくための器であると説明もする。漆の椀に料理が盛られ目の前に供されている姿を考えてもよいだろう。
(p108)


(2023 07/14)

昨日読んだ部分。

 もしすべての事物が個体の中にあるか、または精神の中にあるか、のいずれのあり方しかないのであれば、その事物の真実性・リアリティにとって存在は付加された概念としてあり、その意味では偶有性しかない。事物のあり方が右の二つしかないのであれば、存在は偶有性なのである。(中略)
 しかし同時に、アヴィセンナは事物が右記の二つ以外のあり方を有していて、前提条件が満たされない場面でも存在は偶有性であると述べる場合もある。そのとき存在は偶有性であるとしても、アリストテレスの可述語においては、特有的偶有性である。
(p130-131)


偶有性とは本質に付加されるものであって、オプション扱い、それが前段の偶有性(共通的偶有性)。一方アヴィセンナは同時に、後段の偶有性についても述べる。これが存在の偶有性(p113-114参照)。

 排中律が成立しながらも、本質それ自体はいずれでもなく、中立的にあるというのだ。これこそアヴィセンナ『形而上学』において、「馬性は馬性以外の何ものでもない」として表現されたことである。
(p132)


アヴィセンナの偶有性の思想は、トマス・アクィナスに誤解され(もっとアヴィセンナの文献をトマスが読むことができたら、トマスはきっとアヴィセンナに好意的になっただろう、と山内氏)、ガンのヘンリクスがそれを好意的に解釈した。一方、イスラーム世界ではモッラー・サドラー(1571か1572-1640)がそれを継承。

第4章「存在の一義性への道-第一階梯」

 存在の根源的先行性とは概念的思惟の領域では本質がまず存立していて、その後に存在が偶有するが、概念化以前の実世界では順序が逆でまず存在があるということだ。そして存在の一性とはイスラーム存在論の基本テーゼである。
 さて、そういった根源的にある存在は、本質によって様々に限定され変様するというよりも、存在がそれ自身で様々に自己を限定し、変様・現成しつつ顕現する。換言すれば、唯一なる実存としての存在が無限に異なる様相をとって顕現するわけである。これが存在の類比性で、モッラー・サドラーの存在論の第二の柱を構成している。類比性はアラビア語ではタシュキークである。
(p143)


この後段、タシュキークの方は、この間見たスピノザの神の変容がもろもろの事物である、というのと似ている気が…
この後、いよいよドゥンス・スコトゥスの存在の一義性の話になるわけだが、その前にトマス・アクィナスのアナロギア論…この二つが対立し合うというのが、ドゥルーズの論の展開らしい?のだが、それは山内氏は実際としては正しくないけれど、大人しく正しい論述より余程有意義であると評価。
(2023 07/17)

 「それは自らのうちに全体を抱擁するところの、いわば無限なそして無規定的な実体の大海のごときものだからである」
(p150)


これはダマスケヌスという人の言葉。これをトマス・アクィナスも、ドゥンス・スコトゥスも引用しているという。山内氏は立場が異なる二人は実は重なるところも多い、としている。
とにかく、本の副題にある「海」が初めて?出てきた…
(2023 07/18)

ガンのヘンリクスとスコトゥス

 スコトゥスは、神学を自然的な学知として捉え、そのために、神は人間知性にとっての自然的に認識可能で、第一の適合対象であることを示そうとする。それには三段階の条件を満たさなければならない。神について、自然的認識可能性、第一の認識対象、適合対象であることを示す必要があるが、その根拠になるのが存在の一義性なのである。
(p164)


存在の一義性というのは、神でもその他の事物でも存在の仕方に変わりない、というように今は自分は考えている。三条件のうち、最初の自然的認識可能性は、人間の理性の探究によって神を認識できる、というもの(あとの二条件は今はさっぱりわからない…)。ここがガンのヘンリクスとの対立点(ガンのヘンリクスは人間知性では神にたどり着くことはできないとする立場)なのだが、自分も含めガンのヘンリクスの方に傾きそうだけど、一方スコトゥスの困難な道に山内氏は惹かれているようだ。
(2023 07/19)

 一義性論の重要な狙いは無限性と有限性を媒介する論理を設定することだ。無限と有限の絶対的乖離を維持したまま、無限も距離を媒介する論理を考えなければならない。
(p199)

 (アラビアでは)事物は刹那滅の相にあり、存在と非存在が交互に交替するものとされる。奇妙な設定だが、神の全知全能と慈悲によって事物の同一性が与えられていると考えていたようだ。この刹那滅の事物は個物であるが、世界はこの刹那滅の個物のみからなると考えたのがムータジラ派であり、普遍もまた存在すると考えたのがアヴィセンナだった。
(p202)


ムータジラ派というのは確か、アッバース朝盛期に登場したイスラームとしては科学主義的な学派だったような。存在と非存在が明滅しながら交替するのが事物であるというのはそれだけで面白い。p199の無限と有限のセットと同じように存在と非存在(物質と反物質?)のセットも同じように、スコトゥスのいう「離接的様態」なのだろう。
(2023 07/22)

スコトゥスとオッカム

 無限存在である神は至高の単純性を持ちながらも、無限の多様性と根拠ある区別を持った特別な存在者であるということだ。つまり、至高の単純性と多様な区別を両立させなければならないのである。一見すると、相矛盾する二つの条件を満たさなければならない。それが存在の一義性で悪循環としか表現しえないような難問の閉じた円環が登場している。オッカムはきっとこの円環を解き放とうとしたのだ。そのように見ない限り、スコトゥスとオッカムの倫理学上の親近性は説明できないと思う。
(p208-209)

 オッカムは矛盾律を最終的な基準としたいので、矛盾律が当てはまらない形相的区別の領域を認めるわけにはいかない。しかしスコトゥスからすれば、わかることを成立させる領域が「わかる」ということの妥当範囲に入らないように、矛盾律の成立する領域、矛盾律が適用できない領域のことを考えているのだから両者は相容れることはない。
(p211)


スコトゥスとオッカムの違い‥それは見方や哲学の入り方が違うことにありそうだ。今日読んだところの「内在的様態」はスピノザの神の様態が様々な実態というのと絡む。スコトゥスではこの内在的様態は強度として現れる。度合いの変化で様々に変容する。一方、次の形相的区別では、デカルトの精神と身体が分離しているがそれを日常的には合一なものとして認識している事態と比較している。それがp211の矛盾律が適用できない領域につながる。

第6章「存在の一義性-第二階梯」

 神と被造物との間には或る非対称性が存在している。被造物から見て神は無限に遠く、神から被造物を見れば区別はなく融合している。別の言い方をすれば、被造物からの認識論的な道程において、髪は道程の目的地にありながら無限に遠い。しかし、逆に神は被造物を掌に載せて融合しつつ見守っている。このようなイメージは仏教にもあり、珍しいものというよりも、様々な宗教が普遍的に共有しうる枠組みかもしれない。無限に遠いものが実は存在論的には一致して一つになっているというのは、様々な仕方で語られてきた。このような非対称性が成立しているからこそ、無限に多くの個体が新たにこの世界に誕生しては消滅し、それが繰り返されていく。
(p228)


哲学というか宗教学的な領域になってきた。非対称だからこそ生成消滅が繰り返される、ということは、もし対称になっていたらどうなるのだろう。
(2023 07/23)

 あらかじめ目標地点を示しておくと、神が「無限なる実体の海」としての姿が示されるということだ。存在一義性はそこに帰趨するのである。
(p235)


ここで本の副題にあった「海」が目の前にはっきり現れる。この言葉はヨハネス・ダマスケヌスからスコトゥスが引用してきたもの。もっともダマスケヌスは「実体の無限なる海」と書いていたが、スコトゥスは入れ替えて「無限なる実体の海」とした。

 このように、「海」はあらゆるものを包合し、あらゆるものは形相的に一なる或るものに卓越した仕方で包合されるということが可能となる。「すべてのものは海に流れ込み、そして、それらが生み出たところに還っていくのである」。
(p249)


話は徐々に一義性から個別化の話題へ。この「海」で先に挙げた強度により徐々に浮かび上がってくるのが個別の事物であるのだろう。「すべてのもの…還っていくのである」はこれまたダマスケヌスの言葉の引用。
第6章終了。次の章は個別化。
(2023 07/25)

第7章「固体化論の問題」

 本質は一般的であるので、それをいくつ積み上げても個体に行きつくことはない。本質の外部、つまり述語の中に登場しない。少なくとも登場しにくいものが個体化の原理になる。述語にならないもの、それは普遍の外部でもある。言語として表現しにくく、哲学的にも扱いにくいものしか固体化原理とはならない、それが第一の点である。
(p256-257)


ちなみに第二の点というのは、固体化論というのは「誰が」を問うものであり、「何?」を問うのが哲学であるという論点。
(2023 07/26)

 これまでの可能性とは、いつかこの世に成立するものだけが、言い換えればこの世に少なくとも一つの実例を持つものが可能なものであったが、この世、つまり現実世界での実現とは無関係に可能性が考えられるようになったのである。同時に個体もまた、この世界における唯一性ということから切り離されてしまう。
(p269)


無限世界、平行世界が可能になった、最後の文はなんとなくはわかるのだが、まだ自分の中に落とし込めていない…
(2023 07/27)

 述語的規定をすべて載せ、それを主体に対して一挙に提示している。凝縮された緊張性を伴った強度性、これが〈このもの性〉ではないのか。
(p290)


固体化、このもの性、これが同値なのかよくわからないけれど、個体に辿り着くには一つの述語だけでは全く不完全。無限にありえるけれどどこかで顕れ出るもの、それが〈このもの性〉?
とにかくこれで第7章終了。
(2023 07/28)

第8章「普遍論争」

 この実例が存在するかどうかは普遍の成立にとって必要ないということはさらに、実例が一つしかなくても、普遍は普遍であるということに結びつく。確かに概念を見る限り、太陽や月の概念に複数あることを妨げる条件は含まれていない。実例の個数や実例として見出しうることは問題ではない。
(p299)


個体も「ただ一つ」ということに意義があるわけではなく、どこかに全く同じ個体があることを否定できない。たとえ、この自分であっても。

 「である」と「でない」のいずれでもない領域を扱うとは、二つに一つという言語の制約に対して、その排中律事態がある条件のもとで成立していることを示すことだった。「ある」と「あるのではない」ことの間に「ある」ことの起源が示される。
 スコトゥスは第三領域の「である」「でない」の間に、「でありうる」という次元を設定した。新プラトン主義は「である」と「でない」の間に「なる」という次元を介在させる。オッカムに発する唯名論の流れは、第三領域を否定する流れだったのである。
(p322-323)

 〈認識論的転回〉とはどういうことか。「知性のうちに対象的にあるもの」というのは、外界の写しでしかなく、幻のごときものだ。知性のうちに基体的にあるとは、知性の働きや質としてリアルにあるということだ。スコトゥスは〈理虚的存在〉について、考察作用そのものを考察すること、事物への関係に対して持つ二次的な関係として捉えている。〈理虚的存在〉は事物への二次的関係として、実在的なものとしての資格を得た。〈理虚的存在〉を実在だと明確に語るのはオッカムだが、その準備はすでにドゥンス・スコトゥスにおいてなされていた。
(p331)


転回は、前者対象的に捉える見方から、基体的にあると捉える見方に変わったことを示す。
アヴィセンナの論をガンのヘンリクスを経由してスコトゥスに流れる。ヘンリクスは神と被造物の間の断絶を認めるが、スコトゥスは共通性に傾く。これが「対立」であるかのように多く取られてきたが、山内氏は二人にはつながっている部分もあるという。またスコトゥスとオッカムも、普遍が事物にあるのか、精神の中だけにあるのかで「対立」するとされるが、山内氏はそれもオッカムがスコトゥスの論を批判的に継承してきたと捉える。スコトゥスとオッカムについては、どちらもフランシスコ会所属だった為、敵対していたドミニコ会からの批判が定着してしまった可能性も示唆している。
(2023 07/29)

第9章「中世哲学の結実」


まずはペトルス・アウレオリ。スコトゥスの少し年下。〈認識論的転回〉を推し進めたという。認識したものは絶対的なもので、現前やその事物の存在を必要としない。

 認識は事物を起源とし、事物そのものが本物でそれから遠ざかるにつれて実在性が希釈されるという過程ではない。事物そのものに還帰することで認識の起源を説明することにはならない。
(p342-343)

 直観的認識とは、対象から切り離されても成立する絶対的なものであるが、これでは「欺く神」を導入してしまうのではないのか。他の認識の基礎・源泉と直観的認識が外部の事物から切り離されうるものであるとすることは、懐疑主義に道を開くのではないのか。
(p349)


自分も山内氏とともに、アウレオリの真意がわからなくなってくる。
続いてはオッカム。

 数的に一でないものを「普遍」と呼ぶとしたら-多くの人が普遍をこのように解している-いかなるものも普遍ではない、と私は言いたい。
 いかなる普遍も一にして個別的なるものであり、それが普遍であるのは、それが多くのものの記号となる意味表示によるからである。
(p360)

 普遍は、心の中で、多くのものに述語づけられる本性を有する一つの個別的な志向である。
(p361)


今までこの本内で、いろいろな著作読んできてわかりにくかったけれど、ここにきて途端に明晰になった、ような気がする。

終章「中世哲学の構図」


ルターの宗教改革の土台を作ったとされるリミニのグレゴリウス(恩寵なくとも救済はされる)。ライプニッツに直結するイエズス会の哲学(スアレスやモリナ)。個体は初めから存在し、何かが加わって個体化するわけではない。
山内氏は〈ゴシック哲学〉〈ポスト・ゴシック哲学〉〈バロック哲学〉という歴史区分を提唱する。

 フーコーは十七世紀の古典主義において二項図式の成立を見出したが、その傾向は十三世紀における〈認識論的転回〉に始まっていた。〈認識論的転回〉を介して三項図式は二項図式へと変わっていき、十三世紀に始まった〈認識論的転回〉は様々な媒介を消去していった。ドゥンス・スコトゥスは神の絶対的能力を導入し、理論的に裏付けようとした。神の絶対的能力はその後多くの学者に取り入れられていったが、唯名論の伸長と重なっていた。…(中略)…唯名論は、哲学の〈もの〉への隷属から解放してくれた思想なのである。
(p382)


あとがきからも一箇所。

 確かなことは、約束された地点として、決して辿り着かない存在論の頂上には、存在の海が待っていることだ。それだけはわかっている。その海が何であるのか、私なりの見方を本書で書いてみたのだ。まだ見ぬ、いや決して見ることはないのかもしれない、果てしなく広がる存在の海があるということ、それが希望なのだ。だからこそ、呼びかける声を頼りにして、海を目指して私は山を登る。中世哲学とはそういうビジョンで私に与えられたのである。
(p384)


この「中世哲学入門」で六合目なのだという…しかし、これこそ、「直観的認識」なのではないか。
「「誤読」の哲学」(青土社 2013)という本も面白そう。
(2023 07/30)

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