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「物語の哲学」 野家啓一

岩波現代文庫  岩波書店


書簡体小説の理由

少しだけ「物語の哲学」から。

 いわゆる「近代的自我」とはこの特権性の哲学的形象化であり、自己の内面を告白しうる文学的主体の別名にほかならない。
(p24)


初期の小説作品の多くが書簡体小説のかたちをとっているのはこうした理由だからだという。一方、柳田やベンヤミンの指摘にもある通り、共同体の公共空間の「物語」特に口承のものは衰微していった。
(2017 02/15)

第1章第2節「声と文字」


柳田國男「音声言語」、「文字言語」、そして「口承言語」。
フッサールの「幾何学の起源」で幾何学定理が如何にして超越的意味を持ちうるものになったのか。ここでは幾何学定理が純粋な意味で「客観的」かを問うのではなく(暗に否定されているとは思うが)、それがどのような道筋で 可能となったのかを問うことになる。
(言語の起源として、口承言語を想定するのかと思ったけどここではそうではない、またここでのフッサールの議論は、考古学的、人類学的に進めるものではないし、本当に「起源」が目的だったわけでもない)

 むしろ、伝達過程における無限の反復可能性こそが、自己同一的な超越的意味の独立自存という物象化的錯視を生み出すのである。
(p32)


フッサールは幾何学のみならず人間共同体における伝達と知識の伝播を、音声言語から文字言語へ、その言語理解共同体の伝播とみなしている。ここでフッサールは直観ではなく「解釈学的明証性」へ踏み出す、と野家氏は述べている。「間主観化」(厳密な意味は?)と「歴史化」がその方向である、という。口承言語は出番なし。

しかし、伝達手段が音声から文字になると、一旦テクストにその内容を「沈澱」させ、それを読むものが「再活性化」することによって伝達されていく。が、そこには「意味形成体の自己同一性を脅かす「不断の危険」、「同一性の危機」」が潜んでいる。これを回避するには、学者たちの努力が必要。これはクーンとも通じるのではないか。
というのがフッサールの議論なのだけれど、野家氏はこう述べる。

 この輝かしい目標は、ある意味で、近代自然科学とその究極的基礎づけを目指してきた近代哲学とが共有してきた根深いオブセッションであった、そのオブセッションから解き放たれることが可能ならば、あるいはそのような目標がそもそも意味をなさない地点に立つことができるならば、「同一性の危機」をむしろ積極的にプラスの契機として捉え返すこともまたできるはずである。
(p41)


こうも言ってしまうと元も子もないとも思うけれど、フッサールは科学哲学に解釈学を導入して修正を図った、これをもっと取り入れようとしたのが野家氏の立場、ということでいいのかな。この本の第5章も含めて、科学哲学が「本丸」な野家氏に期待。

第1章第3節「「話者の死」から「作者の死」へ」


概略:ルソー、オースティン対(先駆者として先のフッサール)デリダ、バルト。その対立点は

 直接的で透明なコミュニケーションを求める欲望は、言語論の文脈においては、しばしば意味作用を支配する「話者の特権性」を暗黙のうちに前提し、意味理解の基準を「話者の意図の現前」に還元する構図を採用することにつながるからである。
(p46)


この意味ではオースティンも話者の「意図」を汲んでいる。オースティンの議論は全体的には前提となる慣習を重視しているが、言語行為が適切に遂行されるための最後の項目として「意図」を持ってくる。これは舞台であったり文学作品の朗読であったりする場合は、「通常の状況」ではない、としているから。適切な言語行為は「一人称単数、直接法、能動態、現在形」の文章に還元が可能という。デリダはここをついてくるわけだ。

 それゆえすべての文字言語は、そのようなものであるためには、経験的に規定されたすべての受信者一般の根源的不在の中で機能できるものでなければならない。そして、この不在は現前の連続的変容ではなく、現前の中の裂開、つまり痕跡の中に刻印された受信者の〈死〉ないしは〈死〉の可能性なのである。
(p52)


受信者が不在ならば、発信者も不在であることも前提とされている。
さて、デリダはともかく、「物語り論」の野家氏としては、先のオースティンが舞台や朗読(そして騙り)を排除しているのが気になるところ。

 しかし、われわれが求めているのは、「物語る」という行為を逸脱例として排除するのではなく、むしろそれをわれわれの多様な経験を整序し、他者に伝達する最も原初的な言語行為として位置づけることができるような言語論の構図である。このためには、まず言語行為を「話者の意図の現前」という根深いオブセッションから解放することを試みなければならない。
(p51)


オブセッション2回目(笑)
それはともかく、これまで漠然としていた、この「物語の哲学」という本の目的(意図?)がここではっきりする。ここで一言付け加えると、野家氏の専門の一つはオースティンとヴィトゲンシュタインの言語哲学(もう一つが科学哲学)。
さてさて、話者が死ぬなら作者も死ぬ。もちろんバルト。

 読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先はもはや個人的なものではありえない。読者とは歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない。
(p60)


フーコーの「人間の終焉」もそうだけど、変に文学的素養があるから、こういった言葉が一人歩きしてしまう傾向ある。作者の意図、読者の妄想、それ取り除くと何が・・・

それはともかく(で、いいのか)、読者も〈死〉でなぜいけないのか?前のページにある「無限に増殖する意味は決して収斂することなく、ただ拡散するにまかされている」でもいいのではないか。バルトや野家氏は「磁場」のようなことを言いたいのだろうけれど、それならドーキンスの「利己的な遺伝子」のような(ミームだっけ?)とどう違う?

といろいろ2節分。30ページちょっとの文量読んで書いてきたけど、面白いけど、なんかこれだけで哲学者の概要や主張、それから構図などを鵜呑みにしそうになってしまうと、思う。フッサールやデリダ、オースティンなどなど、とっかかりにはなるけど、野家氏がここで利用しようとしているのとは、また別の側面が必ずあるはず。
ま、無限に増殖する意味の中を漂うだけでも、充分心地よいのだけれどね。
(ここまで昨日読んだ分)
(2022 07/26)

小林秀雄とマッハ


「物語の哲学」昨日は第2章。

 経験を語ることは過去の体験を正確に再生あるいは再現することではない。それはありのままの描写や記述ではなく、「解釈学的変形」ないしは「解釈学的再構成」の操作なのである。そして体験を経験へと解釈学的に変形し、再構成する言語装置こそが、われわれの主題である物語行為にほかならない。それゆえ物語行為は、孤立した体験に脈略と屈折を与えることによって、それを新たに意味づける反省的な言語行為といえるであろう。
(p115)


これまでのまとめというかなんというか。小林秀雄の「無常といふ事」にもこれに近いこと書いてあるという。
第2章読み終わり。

今日から第3章。
歴史哲学…歴史の側面図と正面図。側面図は年表・数直線的表現。一方、正面図はマッハの自画像のように、自己から歴史を見て語る…そう、物語行為。
問題はどうやって?の方法論と、そもそもその語られた歴史に意味があるのか(その語る人がなんらかのヒューリスティックや偏向などで語っている場合、それを論じるのは歴史学なのか社会学なのか…)。ともかく、第3章始まったばかりだから、もう少し様子をみよう。
それはともかく、各節の冒頭の引用、何か自分の好みを知っているかのようなセレクト(笑)。

ベンヤミンと柳田國男


月曜日昼以降読んで、火曜日まとめた「物語の哲学」第1章から第2章。

第4節「「起源」と「テロス」の不在」は、始まりも終わり(「テロス」は終わりのこと)もない口承言語の話。柳田國男が参加していたという連歌とか俳諧のような、場と共同体の文芸などがわかりやすいけど、ここに落語を持ってきたらどうだろうか。
第5節「解釈装置としての「物語文」」

 どんな物語文も後世の歴史家によって修正を受けるのを免れ得ないのであるから、物語的言述は本質的に不完全である
(p89 ポール・リクール「時間と物語」)

 ところがこの経験が、僕らに物語るという芸術の終焉を告げている。まっとうに何かを語ることのできる人に出会うことは、だんだん稀になってゆく。
(p93)


この第1章は、柳田國男の文章を、同時代の思想家ベンヤミンと比較する、という構図になっている。確かにこの二人、近代化による物語の衰微に注目し、近代化の極限でもあるファシズムに対抗しようと、ベンヤミンは複製技術に、柳田國男は「常民」の文化に着目している。

第2章「物語と歴史のあいだ」

 「語る」という行為を「すでに、意識の屈折をはらみ、誤り、隠蔽、欺瞞さらには自己欺瞞にさえ通じる可能性をそのうちにはらんだ、複雑で、また意識的な統合の度合いの高い、ひとレベル上の言語行為」として捉え返している。
(p102 坂部恵「かたり」)


「話す」は当事者同士の行為遂行のレベル、「語る」は他者の働きかけを行うメタレベル。

 いま少し敷衍すれば、物語行為は過去の出来事や行為に「構成的に」関与する、と言ってもよい。
(p106)


発話行為は現在から未来へ、物語行為は過去から現在を構成する。物語行為は語る人と聞き手だけでなく、その共同体を取り込んで引用していく。こうした事態を野家氏は「間主観性」と読んでいるが、これは元々フッサールの言葉。間主観性は他者と大きく関わる概念…これも気になる…デカルトから始まる近代哲学が自己の哲学だとすれば、フッサールから始まる現代哲学は他者の哲学?
(2022 07/28)

積み重なる時間、発掘される時間


野家啓一「物語の哲学」第3章、第3節「歴史哲学テーゼ」(昨夜読んだ箇所)

 しかし、「オリジナル」(引用者注:過去の歴史的事実とされるもの)がなければ、もはや「コピー」という語は意味をなさない(この点は大森荘蔵の議論に負う)。だとすれば、「解釈学的再構成」の所産としての歴史的事実こそが、まさにオリジナルな過去にほかならないのである。
(p165)


「意味をなさない」とは何を意味するのか。
「オリジナル」と「コピー」の問題は、かなり深く考えてみる価値がある問題のように思う。大森荘蔵論文に当たってみるか。

 つまり、ある物語文が真実であるか虚構であるかは、それが「証拠」に基づいた「主張可能性」を有し、歴史叙述のネットワークの中に「整合的に」組み入れられるか否かにかかっているのである。
(p181)


クワインの全体性の中の配置の問題点。ある物語文は以前だったら整合性があって全体配置に取り入れられたが、次の時点では配置が変わり、「虚構」として撥ねられる、ということもあるのだろう。

 反証可能性に開かれているという点で、歴史言明は科学言明と同じ身分をもつものであり、その限りで、歴史は「文学」とともに「科学」とも境を接している言わねばならない。
(p181)


そして科学もまた「歴史」であり「物語」である。というこの立場は科学哲学が一番の専門である野家氏のもう一つの持論なのだろう。

 それに対置されるべきは「垂直に積み重なる時間」という表象にほかならない。つまり、歴史を記述するわれわれ自身が内属する「現在」という横断面に、雪のように絶え間なく降り積もり続ける時間である。あるいは、歴史の地層として幾重にも積み重なって沈澱した一種の地質学的時間と言ってもよい。それは流れ去ることなく、現在の地表の各所に露出しているのである。
(p183)

 歴史家の営みは、この襞の中に包み込まれ押し隠されて通常は人の眼に触れない過去の時間を、その襞を徐々に押し広げることによって明るみに出し、それを判明に認識する作業に喩えられるであろう。
(p187)


ライプニッツの「モナドロジー」から引いてきた「襞」を利用して展開させた文章。「襞」といえば、他にもベンヤミンやメルロ=ポンティなどもあり、現代思想家の何かが引っかかる表象。

虚構の言述(脱線有り)


「物語の哲学」続けて今日分。第2部第4章「物語の意味論のために」
前挙げられていたオースティンが言語行為論から排除した、虚構の言述。ラッセルが非存在者(「現在のフランス王」とか」への指示を消去しようと努めていた問題。これらがここでの中心問題。

 虚構の言述の大きな特徴は、サールが指摘するように、話者がその言述の真理性にコミットしていないこと、すなわち「その真理性に対して証拠を提供できることを請け合っていない」ことであろう。
(p203)

 柳田の言うごとく「古い話だから真偽のほどは定めがたいというような、責任のがれの口上」なのである。このことはまた、引用文(引用符で囲まれた文)の真偽は、それを含む文全体の真理値には影響を及ぼさない、という論理的意味論における原則とも合致する。
(p204)


上記のことから、以前のサールの議論で課題となっていた、話者と作者との分裂は自明のこと、というより虚構の言述の前提条件となることがわかる。
…とここに書いてきたけど、ちょっと一つ危険な?方向に踏み出してみよう。
前の「物語論 基礎と応用」(橋本陽介氏)で述べられていた、「過去形は過去のことを話している時に使われる、のではなく、過去形を使っているから過去のこととなる」という論法、これによって登場した文末の「た」、これらを踏まえてこうは言えないだろうか。
これら虚構の言述の装置使って話している限り、その内部の真理値は問われない…(責任逃れができる)…という図式が先にあって、そこから虚構という形式として、語りものやら昔話やら果ては小説なども誕生したのではなかろうか…
(断定避けとけばとりあえずテキトーなこと言い放題?…)
(物語が作る社会共同体…という幻想?より、余程あり得そうな(自分個人の見解)流れだと思うけれど…)
明日は正常位に戻る予定…
(2022 08/02)

クリプキの因果説から、背景としての物語


 野家啓一「物語の哲学」。第4章後半。
身分け空間
言分け空間
テクスト空間
「世界」の分節化の過程。身分け空間は世界を共同体の思想・文化で分けていく。その次に、その文節された世界を言葉で捉え命名していく言分け空間。これにより、過去のこと遠く離れたことにも言及できる。
虚構の言述の特徴は「遮断」にあるという。

 すなわち「遮断」とは「いかなる指示対象の同定をも妨げるような出来事」のことである。
(p219)


光源氏は「源氏物語」にまで遡及し、そこで「遮断」される。その「遮断」以後は共同体内において有意義な議論や真偽決定ができる。こうした空間が3つ目の「テクスト空間」。

 「遮断」としてのテクストを起点にして現在にまで至る因果連鎖が実在することを意味する。つまり、一つのテクストはそこを起点とする新たな因果連鎖を創り出す機能をもつのであり、その場合「最初の命名儀式」に当るものは、当のテクストの成立と受容そのものである。
(p220-221)

 理論的背景を欠いた〈裸の〉理論的対象とは、いわば「地を書いた図」「背景をもたない前景」のような無意味な存在にすぎないからである。
(p222)


ここの「背景」云々は、クーンの言うパラダイム辺りを思い浮かべればいい。

 文学テクストから科学テクストまでを包括する意味をこめて理論的背景一般を「物語」と呼ぶならば、「何が存在するのか」という問いに対しては、それが依拠する「物語」の文脈を無視して答えることはできないのである。これは周知のように、クワインが「存在論的コミットメント」の名のもとに示唆した事態でもあった。
(p225)


存在とか実在とかの定義の仕方によっては、光源氏やシャーロック・ホームズまでも「実在」となる時もあるし、犬とかも「それは便宜上「犬」という分類をしただけであって、その分類項自体は決して実在はしない」ということになる場合もある。そう考えるとそもそもの「身分け空間」から物語は始まっているとも言えそうだが。
まあとにかく、第4章読み終えた。
(2022 08/03)

記述説と因果説、海王星とバルカン


第5章「物語と科学のあいだ」。科学と物語のあいだの「壁」を、存在論を使って科学側から、意味論を使って物語側から崩していくという構成。前章の内容と被るところもあるが、こっちの方が虚構の指示名詞の「記述説」と「因果説」の違いがわかりやすい。

 それゆえ、「何が存在するのか」という問いは、「いかにして存在を知るのか」という問いと表裏一体なのであり、その意味で存在論と認識論とは相応不可分なのである。
(p242)

 このような立場に立てば、光源氏、源義経、素粒子、電磁場、実数、虚数などはすべて「文化的措定物」(クワイン)として存在論的には等価な身分をもつことになり、「科学」と「神話」や「物語」との間の境界線は不明確化し、連続的なものとならざるをえないであろう。クワインの「全体論」と「連続主義」のテーゼが到達した地点は、まさにそのようなものであった。
(p243)


ここにもある通り、この章の道案内はクワイン。
さて、「記述説」と「因果説」
「記述説」(フレーゲ、ラッセル、サール)…固有名は「記述の束」(例:ハムレットはシェークスピア作の戯曲中の人物、デンマーク王子…)
「因果説」(クリプキ、パトナム)…固有名は「最初の命名儀式」から発する名前受け渡しの「因果連鎖」(例:ハムレットはシェークスピアによって命名)

 しかし、命名儀式の役目はひとえに「指示を固定する」ことにあるにすぎない。当の対象が一義的に特定できるのであれば、その手段は見知りや直示である必要はなく、場合によっては「記述」であってもかまわないのである。
(p252)


ということで、そのような例として、ルヴェリエ(天文学者)の事績をあげている。天王星の軌道を観察して、それに影響を与えているであろう(当時)未知の惑星を想定して「海王星」と命名した。一方同じルヴェリエは、今度は水星の近日点移動を観察して、それに影響を与えているであろう惑星を想定して「バルカン」と命名した。前者は有効、後者は相対性理論によって無効。ただ後者が無効となったのは決して「遮断」があったわけではない。ニュートン力学の枠内では「バルカン」は妥当な考え。
(2022 08/04)

積み重なる時間、そして物語り文


第6章「時は流れない、それは積み重なる」
時間は通常は数直線のように川のように流れるものだとされる。物理学幾何学的には線分は無限に分割され、現在は点でしかなくなるが、人間的スケールにおいては現在は「幅がある」。

 メロディーをまとまりをもった一つのメロディーとして聞き取るためには、「今現在」聞こえている音とともに、「たった今」聞こえていた音と「今すぐ」聞こえてくるであろう音を同時に意識の中に保持しておかねばならない。
 かくして知覚的現在は「過去把持-原印象-未来予持」という系列の総合によって構成されているのである。
(p266)


これがフッサールの議論になるが、野家氏によれば、知覚と想起を同一、或いは連続的変容にさせるために「時が流れる」のメタファーになってしまっている、という。
ではどう考えるのか。

 そこに見られるのは、継起する出来事の非連続性と連続性の「矛盾の統一」であり、言ってみれば「非連続の連続」の意識である。それは「流れ」であるよりは「出来事の連鎖」の表象に近い。
(p271)


透かし図柄が描かれたガラス板がうず高く積み重なっているイメージを、野家氏は挙げている。これも美しいが、自分はどちらかというとテトリスみたいなズレ含む方が近いのでは、とも思う。あとp272には「出来事」をどう切り出すかということが(デイヴィドソンの分析に触れるくらいで)軽く書いてある。ここも気になる箇所。

八分半前の太陽


さて、次の節では、「八分半前の太陽」と称して、太陽から地球まで光は八分半かかって到達するが、それではその光は現在のものなのか、それとも過去のものなのか、という「アポリア」が問われている。
まずは野家氏の師匠?でもあり、この本でも何度も出てきた大森荘蔵の議論。

 空間的に隔たった対象を知覚できるように、時間的に隔たった対象(過去の事物や出来事)をも直接に知覚可能だと主張するのである。
(p282「過去透視」)


要するに、今見えている世界の像は、全て過去が見えているという。
一方、それを「暴挙」という中島義道はこう言う。

 私が一〇〇万光年(これは空間的距離である)かなたのSを夜空に見るとき、そこには私は一〇〇万年前という「過去透視」をしているわけではなく、ただ一〇〇万年間という〈いま〉を現出させているだけである。
(p284)


これもどこに視点を置くか、の違いのような気がするのだけれど。野家氏は「いまが幅を持つという洞察は正しいが、百万年前をいまというのはインフレーションだ、と退ける。またp285の「二億年前の恐竜の化石が〈いま〉掘り出された」という文に関して、中島説では二億年間という〈いま〉になる、と野家氏は指摘しているのだが、そこまでのことは中島氏は言っていないと自分は思うがどうか(恐竜の化石はそこにあるのに…原著に当たっていないから不明だけれど)。
とにかく?この二つの説に対し、野家氏の立場はどうか。

 「数秒前に撞かれた鐘がいま聞こえた」や「数秒前の稲妻とともに発せられた雷鳴が今聞こえた」という文は、一つの知覚的出来事を述べている文ではない。それらは視覚的出来事と聴覚的出来事という二つの出来事に言及し、両者の関係を述べている「物語り文」なのである。
(p289)


ここで物語り文か…
(二つの別個の自分の時間的に離れた出来事を指示し、そのうちより初期の出来事を記述する文(アーサー・ダントー))
八分半前の太陽も同じ視覚であるだけで、これも物語り文だという。
(ナンダカナ)

 物語り文は基本的には歴史的過去に属する二つの出来事を結びつける歴史記述の文章形式であるが、それは同時に知覚的現在、想起的過去、歴史的過去をも相互に結びつけることによって、それらの間の懸隔を埋め、統一的な歴史的時間を形作る働きをする。
(p295)


再び問う。
…物語り文ではない文章はあるのだろうか…
(2022 08/05)

「物語の哲学」読了


第7章「物語り行為による世界制作」
第1節「物語り論の系譜」は仏独英米による物語り論の歴史。レヴィ=ストロースやバルト、(ドロイゼンを先駆者として)ガダマーやハーバーマス、そして英米ではダントーとギャリー。またこの時代には科学哲学においてクーン「科学革命の構造」が出てきている(ポパーって、人文・社会科学には自然科学の方法は適さず、別の方法論を用いるべし、とかいう立場ではなかったでしたっけ)。そしてその掉尾を飾るのはヘイドン・ホワイトの「メタヒストリー」(1973)と、ポール・リクールの「時間と物語」(1983-1985)。

第2節「物語り論の基本構図」
ここでは前章で軽く触れられた(かつ自分のこの記録(07/18)で「出来事の切り取りはどこかで触れられると思う」と書いた)デイヴィドソンの出来事理論をやや詳しく。でも「やや」であって、詳しくは柏端達也氏に丸投げ(笑)(「行為と出来事の存在論」勁草書房(1997))。

 出来事は物理的事物のように路傍にころがっているものではなく、一つの出来事を同定しようとすれば、何を原因とし何を結果とするかをめぐって、それを確定する「視点」と「文脈」とが要求されるからである。
(p313)


続いてアーレント(「過去と未来の間」みすず書房)から。

 「存在するものを語る」人が語るのは、つねに物語である。そしてこの物語のうちで個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な何らかの意味を獲得する。
(p316)


ディーネセンを例に挙げてここでは(心理学的な、喪の仕事的な)物語化行為が語られる。野家氏はそれをカント的、リクール的に「現実の構成」へと拡大していく。

第3節「物語りの内部と外部」
レイモン=ピカールが区分した、歴史の物語り論者の区分。
ハイ・ナラティヴィスト(ロラン・バルト、ヘイドン・ホワイト)…全ての文化は言語の内部にある。よって物語の外部は存在しない。
ロウ・ナラティヴィスト(ポール・リクール、デイヴィット・カー)…物語の中で生起することと世界の中で生起することの結びつきを主張。
そして野家氏もロウの方。

 われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。あるいは別の比喩を用いれば、科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである
(p320 クワイン「論理的観点から」勁草書房)

 それゆえ、物語りのネットワークは境界条件としての外部に絶えず囲繞されているのであり、そこから越境してくる異他的なるものの到来と遭遇を通じて、われわれは物語りを語り直し、更新するダイナミズムの中へと身を投ずるのである。
(p323)


この物語りの外部という問題は、あとがきにある上村氏の批判と回答とも関係し、この本第3章のテーゼ「物語りえないことについては沈黙せねばならない」は、「物語りきれぬものは、物語り続けねばならない」に更新されている。

第4節「物語りと「人称科学」」
もう疲れた?ので一箇所だけ。ダントーの物語り文を現在の経験も含ませるように拡張することによって、科学哲学に物語り論を導入できる、と野家氏は考えている。
(読み終わったのは昨日)
(2022 08/06)

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