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「ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選」

沼野充義・沼野恭子 編訳  河出書房新社

幕張の本屋lighthouseで購入。
「ヌマヌマ」…「ヌマ1」こと沼野充義と、「ヌマ2」こと沼野恭子の、雑誌に掲載された現代ロシア文学短編の集成。


「空のかなたの坊や」ニーナ・サドゥール

これは沼野恭子訳。作者は「魔女」とも呼ばれ、不条理劇とか飛んでいる作品が多く、この短編集の冒頭に相応しい?
さて、この短編はユーリ・ガガーリンの母が、息子の死後、アル中気味で水槽に小さな魚達を飼っている庭番のオルロフとアパートに住んでいたところ、カフカス出身の女と息子が突然現れ、居住証明書をもらうためオルロフと結婚し語り手のガガーリンの母オクチャブリナを放り出そうとしている(と二人は思っている)。最後は、ガガーリンとは逆に生命の根源たるマグマへ地球の中心へと向かう宇宙船に乗る(という幻想)シーンで終わる。最後は「魔女」らしく幻想で終わるが、そこまでの生活細部のリアリズムの描き方が畳みかけるように残る。
引用はこの短編中で二度挿み込まれる、オクチャブリナの若い頃、ユーリを孕んだ身体でカフカスの山に登って遭難しかけたところ。

 そのときだった。山に住む人たちが現れたのは。山の人たちは私を岩からおろし、ぷうんと酸っぱい匂いのするヤギの皮にくるんでくれた。ヤギ皮の内側はざらざらしていて肌にひっかき傷ができたけれど、いつまでもどっちを向いてもはてしない奈落というよりはまし。
(p22)


はてしのない奈落。それはオクチャブリナによると、息子が空を突き抜けて、神も生命もいない虚無の宇宙を地球に流し込んだことで始まったという。
(2022 09/23)

「バックベルトの付いたコート」ミハイル・シーシキン


1961年モスクワ生まれ、1995年からチューリッヒ在住。「手紙」(2010)が奈倉有里訳でクレストブックスから。その前に「イズマイル攻略」(1999)と「ホウライシダ」(2005)の長編があり、この「バックベルトの付いたコート」(2010)ではその長編2編のメイキング的要素もある。

この作家の特徴として重層的な時間と空間、特に異なる時間の絡み合いという点がある。例えば「手紙」では、義和団事件で死んだ男とソ連時代の女が手紙を交わす、とか。あと、作品冒頭でロベルト・ヴァルザーへの言及があるのだけれど、ヴァルザーへの言及といえば、ゼーバルト、タヴァレス、そしてカフカ…気になっている作家の気になり度がまた上昇(まだ未体験)。

「バックベルトの付いたコート」で主に描かれるのは、学校の校長でもあった母親との思い出。

 ただ作家はぎゅっと手を掴まれるだけなのだ。文字通りの意味で。
 その瞬間、ありふれたものの中では交わるはずもなく別々に存在しているもの同士が出会う。見えるものと見えないもの、くだらないものと秘めたるものが。
(p44)


先に述べた異なる時空の絡み合いという、この作家のエッセンスが凝縮して提示されている。

 だから、森のはじっこにいてすえたような匂いを口に感じているのは私ではなく、宇宙が、私の鼻の孔を介して自分自身の匂いを嗅いでいるのだ。
(p45)


宇宙と個人の関係が裏返しになって伝わっているような、そんな感覚。ここに挙げてきた文章読んだだけで、序盤だけどこの作家好みになりそうな気がする。少なくとも「手紙」はマストだろう…
作品の最初と最後に、母親と11歳の作家、それにヴィーチャおじさんという母親の男友達のような人との、ヴォルガ河畔の「休息の家」での生活が描かれる(最後にここに戻ってくるのも印象的)。夜、というか明け方近く、少年はトイレに行くために外に出る。

 いちばん手前の茂みのそばで立ち止まった。細い流れから湯気が立つ。
 すると突然、私の身に何かが起こった。あたかも本物ではない空間から本物の空間に入りこみ、あたかもあらゆる感情がレンズのピントを合わせて、あたかも八月早朝の寒さに凍えた私の肌が全世界を覆っているような気がした。
(p63)


手を掴まれた、作家シーシキンの誕生の時なのだろう。
八月で「寒さに凍えた」というのもロシアだが、それも含めて、この作家の中では、理性も感情も、匂いや寒さなどの感覚も、渾然となって一つに溶け込む本質的には同じものなのだろう。

 母さんも亡くなったことは亡くなったけれど、同時に生きてもいる。額に正教の紙片栄冠を載せて棺に横たわり、同時にあの休息の家で寝息をたてているのだ。
(p63ー64)


…前の長編2編も翻訳期待。沼野恭子氏か奈倉有里氏かになるのかな…
(読んだのは昨日)

「庭の経験」マリーナ・ヴィシネヴェツカヤ


こちらも都会と大自然の間での別荘(ロシアの「別荘」というのは、どっちかというと家庭菜園とかに近い)の話。ただこちらは、実の親子ではなく、両親不在の間、娘の子守を頼まれた語り手視点。

 隣のベッドで寝息もたてずに寝ている大人しくいたいけなダーシャと私自身を区別することは、もはやできなかった。頼りがいのある立派な巨人が庭じゅうを歩きまわっている。どうやら息を吸いこみ、ふうっと吹いて、ゆりかごを揺らしてやろうというつもりらしい。夜中はだれもが胚の格好で眠っているのだから…。きっと、それだから年齢などというものはどこか地下深くに沈んでいってしまうのだろう。横になったまま耳をすませていると、ネズミたちが年齢を噛みくだいてぼろぼろにしている音が聞こえるはずだ。
(p70)


どうして大人と子供の区別がつかなくなるのか、考えながら読んでいくと、「胚の格好」で納得し、ネズミが噛みくだくところではもうこの世界観にゆったり浸っている…という感じ。
…というわけで、ガガーリンの母の突拍子もない飛んだ作品から一転、2作品とも静謐なロシア原風景で、ぶっ飛んだ表紙のこの本にこんな静かな世界が隠れているとは…と思ったけれど、大丈夫?次はペレーヴィンだし、リモーノフとかプリレーピンとか作者紹介だけみても怪しい作家も控えている…
(2022 10/16)

ペレーヴィン「聖夜のサイバーパンク、あるいは「クリスマスの夜-117.DIR」」


昨日分

 詩というものは、古代の呪いの魔術の遠い末裔であり、専制政治とか全体主義体制などとは、ある種の共鳴が生ずるためか、どうも相性がいいようだ。そういった体制はふつう、みずからも魔術的な天性を持っていて、そのため自然に、詩という魔術のもう一つの分脈を養うことになる。
(p82)


一読すると、語り手はソ連体制時代を懐かしんでいるようにも思えるのだが、果たしてどうか。詩というものには二面性がある、というクンデラにも出てきた考えを、別の側面と立場から、ペレーヴィンも共有しているという気が今はしている。

さてこの短編、長編の「チャパーエフと空虚」に比べるとだいぶ読みやすい。この作品は結構初期の頃。筋は、「クリスマスの夜」(専門家内では117.DIR)とか名付けられたコンピュータウィルス(そういえば「犯罪プログラム」という言葉はなかなか普及しない)が暴走して、市長の偽の命令が次々実行される、というもの…なんだけど、これ全くコンピュータウィルスとか関係ないのでは…「市長が全く疑わなかった」という秘書が怪しい…コンピュータウィルスの説明をルービックキューブでしているのも懐かしいけど、「実際は違うから戯れてやってます」的な匂いが…
というペレーヴィンが好みになっていく短編なんだけど、冒頭で挙げた詩の話題はこうなると唐突感有り。「クリスマスの夜」なる名付けに少しページ割いているので、関わるとしたらここか。このテーマで本筋にかかるところあったかな。あ、ツルゲーネフの短編の犬「ムムー」という名前と、ツルゲーネフでは女主人の命令で犬を川に沈めるゲラーシモフか。ペレーヴィンでは、このコンビが市長の運命を左右するし…
(2022 10/30)

オリガ・スラヴニコワ「超特急「ロシアの弾丸」」


昨夜寝る前に半分(何かに衝突?)まで。この「超特急」はロシア自体の象徴であることは、他の何よりも明らかなのだけれど、とりあえず、文章表現が楽しい2文を。

 宇宙という繊維からぐいと引き抜かれた一本の糸のようなものなのではないか。「弾丸」列車はそうとう常軌を逸したものと言っていいんじゃないかとゴルベフは思った。
(p109)

 ロシアではすこぶる奇跡を頼りにしてしまいます。起ころうが、起こるまいがね…。奇跡はすぐそのあたりを動きまわっていて、通常の生活のあまりに近く、わが国の、言ってみれば、貯水池に棲みついているんですよ。これはもうどうしようもありません
(p115-116)


昨夜2箇所を引こうとは思っていたけれど、ここだったかな。違う気もする。
(2022 11/02)

「ロシアの弾丸」続き。

 ビビコフを上から見おろしているのは、一分の隙もないスーツを着た肩幅の広い男で、鋼鉄のように冷ややかな目をしているため、深くきつくねじこんだけれどネジ山がいかれてしまった木ネジを思わせた。
(p120)


これは記者の一人ゴーシャが倒れてしまったのを治療し、列車を止めて欲しいという医師ビビコフを睨みつけるボディガードの描写。肩幅広いとか、鋼鉄のとかは納得だけど、木ネジっていうのがそこにはミスマッチ。昨日引いた二つの文章にもそれは言えて、糸とか貯水池とか(それ以外では)案山子とか、そういうのを紛れ込ませているのは、文学より現代アートに近さを感じる。
物語的には、この後、「ロシアの弾丸」列車はブレーキをかけてウラル山中で止まるのだが、それはゴーシャの為に止まったのではなく、列車の進路に障害物(それも前半で出てきた昔の放置された列車)があった為という展開。作者紹介では「現代のナボコフ」と言われているというが、この短編だけではそこまで難解でもない。こうなると長編も見てみたいが…
(2022 11/03)

「ロザンナ」エドワルド・リモーノフ
「おばあさん、スズメバチ、スイカ」ザハール・プリレーピン


「ロシアで出版された一番汚い表現の作品」リモーノフと、そのリモーノフを敬愛し共産主義を信奉するプリレーピンという、結構怪しげな組み合わせ。こういうのを見せるのも「ヌマヌマ」の考えなのだろう。というわけで、ただ怪しいだけでなく、「ロザンナ」は前に読んだウリツカヤの「陽気なお葬式」と通じるところがあるし、一見シーシキンの世界と通じそうなプリレーピンの牧歌的世界も、草むらに手を入れるとスズメバチ(そして、暴力)が現れるし。
読んだのは、リモーノフが11/19、プリレーピンが11/20。
(2022 11/21)

「霧の中から月が出た」タチヤーナ・トルスタヤ


(金曜日(11/25)読んだ分)
この短編集の中の作家にしては珍しく?以前から翻訳あり(「金色の玄関に」白水社、訳者はヌマヌマ)。
現代ロシア版「女の一生」的な、現代らしく?未婚のわらべ歌からロシアの世俗に至るまで(ロシアにも銭湯がある!)。
読んでから時間経ってしまったのでなかなか思い出せないけれど、この短編集の中では、シーシキンやスラヴニコワとともに好みの作品。

 空は押し黙り、大地は息絶えた。何千年も雨がじどじと降り続いた。ナターシャは大釜のように膨れた身体を引きずり先が枝分かれした足でぎこちなく歩いている。足は五本だったり七本だったりして余分だった。鏡からこちらを見ているのは、ゴムのような鬱陶しい顔の重たげで鈍そうな目。
(p188)


「百年の孤独」か? 妙な表現とそれをユーモアある余裕の筆致で全編貫き書いていく文体。この作品は作者の特徴を凝縮している、と訳者は書いているけど、他の作品の筆致はどうなのか見てみたい…まだ邦訳手に入るかな。

金曜日にはまた、「現代ロシア文学入門」ポストソヴィエト文学研究会購入。オリガ・スラヴニコワがダブり(違う作品)。
(2022 11/27)

「馬鹿と暮らして」ヴィクトル・エロフェーエフ
「刺青」エヴゲーニイ・グリシコヴェツ


前者は何かの刑罰の代わりに「馬鹿と暮らす」という罰で済ませた男の話。最初は「レーちゃん」(原文ではレーニンのファーストネームの愛称)を遠巻きに見ている、語り手とその妻だったが、だんだん中心にはレーちゃんが位置するようになる。彼を挟んで、語り手と妻が徐々に愛情というか情欲というかを募らせていく。それを敏感に察知し、利用するレーちゃん。レーニンに対する政治的批判とかもあるのかも、あるのだろう、だけど、ここでは理解できてないので取り上げない。最後は妻はレーちゃんに殺されてしまい、語り手が以前のレーちゃんのように市場に売られていく。

後者は、海軍に所属した語り手の左親指根元に、錨の刺青を彫る話。このグリシコヴェツという作家は、ジャンルは様々だけれど、どれにおいても「一人語り」という特徴がある。この「刺青」もその一つ。

引用文はどちらも前者「馬鹿と暮らして」から、まずは序盤。

 そんな松ぼっくりが雪の中に落ちると、肉眼ではよく見えないほど小さな無数の雪片が舞い上がる。それはまるで、おとぎ話に登場する客人がダイヤモンドの粉をあなたの目の中に振りかけたかのよう、振りかけて、自分は極寒の霧の中に溶け込んで消えてしまうのだ。
(p208-209)


この作品全体の情欲重めな、室内描写が多い中に、ふと現れる自然の描写。

 ちょうど、そんな具合に、ごみの山で炎が働くものだ。炎の優しい舌のような先端は、腐って悪臭を放つ古着を舐め、動物の死体を糧にして、風に当たって震える。その炎は美しく、強くなっていく。
(p228-229)


炎をレーちゃんに、周りのゴミを語り手と妻に配置すれば、いいのかな。エロフェーエフの創作方法は、ひょっとしたら、何かのエネルギー総和が最初にあって、それを使い果たすにはどうすればいいのか、と考えた結果なのではないか、とも思う。グリシコヴェツの創作の一番底に自分語りというのがあるのと同じように。
(2022 11/28)

「赤いキャビアのサンドイッチ」アサール・エッペリ

そういえば、最後の2作(「赤いキャビアのサンドイッチ」と「トロヤの空の眺め」)はどちらもホメロス(「イリアス」、「オデュッセイア」)を下敷きにしている作品。

 ぼくも信頼しきって、よそ者が甘いキスをされたり優しくされたり、迷わされまとわりつかれてどういうわけかすすり泣きされる、そういう国に入っていった。ミカンの実と乾いた熱い大地の国。放浪の旅人オデュッセウスが、豊かな髪を乱し気弱になったカリプソのもとへ、いかめしい足取りで出向く、そんな国。
(p266)


大学寮のうち有名ではない方?のバラック、その用務員?おばさんの部屋を使わせてもらって、怪しげな仕事をしているらしい女とベットをともにする話。自分が参考にしている複数の読書ブログで、本書でこれが一番好みと薦められている。確かにどれか一作品だけ薦めるならコレかもしれない。どんな人が読んでも何かに突き刺さる…
おまけ:「イクラ」はロシア語で魚卵全般、「黒いイクラ」はチョウザメのいわゆるキャビア、「赤いイクラ」は鮭のいわゆるイクラ…

「トロヤの空の眺め」アンドレイ・ビートフ

 部屋が彼のまなざしの虜であったとすれば、その一方で彼は部屋の虜だった。部屋が主人の顔を枠のように取り囲み、顔は目の枠となっている。このような包合関係は、いわば可逆的なものだった。つまり、顔がまなざしの中に含まれ、部屋が顔の中に含まれるという関係にもなり得たのである。
(p275)


この後の展開、語り手の書く小説と、語り手の身に起きる出来事、それらは枠になったり中に含まれてみたり…全部読み終わった後で思うのだが、大枠の語りを聞く若者との間にも、この包合関係があるのだろうか。

 我々に身近なわかりやすい事物を描き出しながらも、結局作家がはまり込んでしまう虚無の深淵のことを、僕は知らなかったのだ…
(p277)


この作品の一番のテーマであるところが、書くことについての虚無。自分もそこまでは考えたことなかったけれど、現代になればなるほどその感覚は強まりそう。

 戦争はあった、と。しかし、ヘレネがその原因だったのか? 詩人たちが愛するのはヘレネではなくて、ヘレネの中にある原因です。際限なく彼女のイメージを呼び出すことができるのも、まさに彼女自身が存在しないからです。
(p295)


語り手の実生活では、ディーカという恋人がいるのに関わらず、彼はヘレンという女を追い求める。ヘレンが(「イリアス」の)ヘレネが呼び出された形であるのは間違いない。そしてこの作品内でも際限はなさそう。呼び出す小道具として、鏡を始めとして手紙とかマネキンとか、何処か人工的なものが使われるのももう少し深読みしてみたいポイント。

 私たちが愛読するような作家は皆、自分の代わりに書いてくれる人物を、自分の内側から考え出すことができたという訳なんです。しかし、その時、彼ら自身は、書く人間であることのほかに、何者だということになるのでしょうか?
(p330)


p277で出たテーマ再び。現代作家特有の悩みであるとも思ってしまうが、例えば、自分の書く小説のような波乱の実人生を送った…というような近代辺りの作家(実例は思いつかない)がいたとして、果たして彼あるいは彼女は、書くことについてついて回るこうした虚無感に、現代作家より保護されていた…ということはたぶんないのでは、と思う。

ちなみに、アンドレイ・ビートフ(1937-2018)は、ここで紹介される作家としては重鎮の方。この作品にも見られるようなメタフィクション技法の作風を徐々に強めていく。「書かざるものの不可避性」とかタイトルだけでゾクゾク…
…だけど、邦訳はヌマ1(沼野充義)が訳したこれのみ。「対称の教師」(1987)という連作集の一編。今の流行のはペレーヴィンのようなパンクか、シーシキンのような叙情性か、エッペリのような青春コメディ辺り。ビートフのような作風はレムとかカルヴィーノとかの、日本で大家として認められていないと翻訳されないのか。
というわけで、先月からポツポツ読んできた「ヌマヌマ」もこれで終了。
(2022 11/30)

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