見出し画像

「チャパーエフと空虚」 ヴィクトル・ペレーヴィン

三浦岳 訳  群像社

チャパーエフと空虚


 トヴェーリ並木通りは、最後に見た二年前の光景とほとんど変わりがなかった-またしても二月、雪の吹き溜まり、昼の光のなかにまで広がるあの独特の暗闇。ベンチにはやはりじっと固まった老婆たちの姿。その頭上に広がる木の枝の黒い網目には、睡眠中の神の重みでずっしりと垂れてきたおんぼろマットレスのような灰色の空が相変わらずのしかかっている。
(p11)


モンゴルの僧院で書かれというプロローグから、本文へ。書き出しはゾクゾクしていい感じ。ロシア革命時とソ連崩壊時、それを二重映しあるいは交差させて作品世界を作り上げていく、ようだ。チャパーエフというのは実在のロシア革命時の軍人。でも今のロシア人にとっては、熱血漢のイメージとしてアネクドートによく登場する、そういう人物…
もう一方の「空虚」とは…

 バルコニーは並木通りに面してはいたが、下には冷たく暗い虚無の空間が二十メートルほど広がり、雪が吹き荒れていた。
(p25)


なんだか作品冒頭から語り手あるいは焦点人物が、元友人?にゆすられてその友人を殺害する。誰もいない(なんだか接収された元貴族の家みたい)この友人の部屋にまだいる時に、誰か来訪者が…という場面でこの文章が出てくる。空虚(または虚無)という表現の、多分初出。この虚無空間がなんらかの節足点になるのであろう。
(2020 10/14)

 上記p25のところから、なんだかよくわからない同志二人と、運転席だけ無蓋でずっと雪が積もりっぱなしの運転手とで場末の文学キャバレーへ行く。中では「罪と罰」のパロディ寸劇やっている。それが終わると語り手がステージへ。

 僕はそこに片足を載せると、静まりかえった客席をにらみつけた。目に見えるすべての顔がひとつに溶け合うような錯覚が起こる-媚びるようでふてぶてしく、卑屈な自己満足の渋面がはりついた表情。これは間違いなく、肉体を奪われてもなお生きている金貸しの老婆の顔だ。
(p44)


ここで語り手は革命詩を朗読し、同志二人は銃撃し、雪の中待っていた運転手のとこに戻る。途中で語り手を除き降りて、向かった先は…
刑務所、あるいは精神病院…

というところで第2章へ(ちょっと筋書いておかないと見失ってしまう)。読んでいる最中は気づかなかったけれど、どうやら時代も飛び越えそこは1993年ソ連崩壊後らしいのだ。語り手はそこでチムール・チムーロヴィッチ(しかし、なんて名だ…)という医師?に面会し、変な薬打たれ、グループセラピーが始まる。グループといってもどうやら語り手内部に内包する様々な可能性の、いろいろな表出。

 目はほとんど見えず、体は感覚を失い、意識は重く鈍い無関心の闇に沈みつづけている。もっとも不快なのは、そうした感覚をおぼえているのが、自分ではなく、薬が生んだほかの人格であるかのように感じられることだ。
(p62)


ここから、その可能性の一つ「ただのマリア」の筋が、活字も変えて割り込んでくる…の、手前で今日はストップ。
(2020 10/19)

マリアの夢(あるいは語り手の夢)から


 飛行機が小さく傾斜した。マリアには、それが明らかにアンテナに触れたことに関係していることがわかった。それはとても生々しい揺れ方だった。まるでアンテナが飛行機のいちばん敏感な部分ででもあるかのようだ。マリアはそっと鋼鉄の軸をなで、先端部分を掌で包んだ。〈ハリアー〉はびくりと翼を震わせ、数メートル上昇した。ベットに縛られた男の人みたい、とマリアは思った。
(p82-83)


ここでは語り手がベットに縛られているわけだが、ここまで直裁的に書かれると、ここから導き出される性的イメージが安易な落とし穴の一つなのではないだろうか。という気もしてくる。チムール・チムーロヴィッチもそんなこと言ってた。
あとは、この都市上空を飛翔するというシーンが、「巨匠とマルガリータ」でマルガリータが箒に乗ってモスクワを飛ぶのを想起した。これはたぶん作者も意識してるのでは、と思うのだが。

第3章


 いまと関係ないことに頭を痛める必要はない。あなたのいう『このさき』に行くのは、これからだ。あるいはフールマノフなどどこにもいない『このさき』に行きつくかもしれん。でなけりゃ、あなた自身存在しない『このさき』に行きつく可能性だってある。
(p111)


補足…フールマノフとは、小説「チャパーエフ」(1923)の作者。この戦記小説が評判となり、映画化までされた。第3章に出てくるアンナは、映画版のみのキャラクター。

東洋の刀身に映るレーニン(チェーホフ絡みのセリフを言う)。ロシア革命後の混乱の冬に、動員された民衆を前に演説するところの臨場感。そして、民衆の望むものをその空気から取り入れるチャパーエフ。ここでも、ちょっと前の箇所でも、個人内に閉じ籠もった自我なるものを否定し、相手と意識が流れ合う。
(2020 10/20)

第4章


ソ連崩壊直後編。奇数章がロシア革命時、偶数章がソ連崩壊直後、という割り振りなのか。
今度はアートセラピーなるもの。彼以外の三人の絵(マリアの絵は先述の飛行機の夢、他の絵もこの後の夢として出てくるみたい)の描写のあと、語り手…「空虚」という名前らしい…の絵に移る。

 それよりも、絵をひと目見たときに感じた、この絵は未完成だという印象が気にかかっていた。僕は絵に向きなおると、何がいちばん気になるのか少し考えてみた。どうやらそれは、会戦の図と列車のあいだの、空があるべき場所が原因のようだった。そこにはほとんど何の色も塗られてなかったため、空にぽかんとした空虚感が生じていた。僕は机に近づくとちらかったがらくたを手探りして、適当に赤のチョークと木炭の芯のようなものをつかんだ。
(p135)


そして、彼はこの空に戦闘を描く。真空を嫌うのは真理だったか心理だったかなんだったか。空虚に耐えきれず何かを付け加えてしまうことが人間の歴史の歩みそのものなのではなかろうか。大半は陰惨な歩みとなってしまうけれど。

この章の最後は、アリストテレスの石膏の胸像で何度も殴られるところで終わる。実体というものを生み出したとか、ボリシェリズムの先祖であるとか、いろいろ言われてるけど…これも何かの鍵?プラトンの像だった場合では比較してどうなのか?
(2020 10/21)

第5章…ということは。ロシア革命後のターン。


 それにくらべてあなたのうわごとはすごくいきいきしてた。じつはそれでときどき聞きに行ってたの、純粋に退屈しのぎとして。いまのあなたなら、うわごとのほうが遥かに面白かったわ
(p169)


となるとうわごとは、第4章の内容か。

 もちろん、世界は僕のなかに存在しつつ、僕も世界に存在すると言い返すこともできたかもしれない、これはたんにひとつの意味の磁石の両極に過ぎないと。だが問題はこの磁石、この弁証法のダイアドは、ひっかけられる場所がどこにもない。
 存在するための場所がないのだ!
(p204)


チャパーエフと語り手との禅問答(公案)を通して。
(2020 10/22)

第6章、セルジュークの物語(と言っていいのかな)。


 もっとも、ここで大事なのはポートワインでも鉄柵でもない。一瞬ひらめいて、悲しみを呼びさましたもの-裏道を囲む柵の外に三六〇度広がった世界がはらんでいたはずの無限の可能性と選択肢だ。
 かつては柵の向こう側にあった空間は、もうかなり以前から、人生経験が眠る無数の棺桶で埋めつくされてしまっているのだから。
(p210)


セルジュークというと、ロシアの名前というよりセルジューク朝とのイメージとのつながりが思い出される。けど、ここでの物語というか妄想は、日本の妙な商社…

 その者は、その後いかなる門を通ろうとも、帝の宮殿に入ることはない。いつまでも元の同じ中庭にもどってくることになる!
(p243)


「元の中庭」とは、この小説の場合、精神病院のことになるのか。この作品の粗筋的には(モンゴルの僧院で書かれたというはしがきを除くと)ソ連崩壊直後の精神病院から、チャパーエフの時代とか「ただのマリア」とか「タイラ商事のカワバタ」とかを夢見ている、ということになりそう…なんだけど、どういうわけか現実的なのはチャパーエフの時代で、精神病院他が夢見られているようなそういう気が、読んでいてしてくる。

 本物の生というものは、本質的に長時間持続するものではない。
(p273)


持続の側に立つ時間と、そこから屹立している生との対比。次のp275の「固定的な核」云々のところは、落語「天狗裁き」の八五郎、またノーテボームの「これから話す物語」の語り手に、読ませたらどうだろう。
既に、第7章に入っている。
(2020 10/24)

現前化と第四の男

 いったいどう表現すればいいだろう、ある舞台装置が移動されたにもかかわらず、もうひとつのセットを置くのが間に合わず、ふたつのセットのすきまが垣間見えたというような感覚-その瞬間僕は、これまでつねに現実と見なしてきたものの裏のからくり、世界というものの単純でくだらない構造を悟った。
(p302)


この作品でずっと追求されている「誰でもない、どこでもない、なにか」はこうしたところにあるのか。

 われわれが住む世界もたんに、人々が生まれたときからそう見るように教えこまれてきたものの共同的ヴィジュアライゼーションにすぎない。実際これは、ひとつの世代から次の世代へと引き継がれる唯一のものだ。
(p313)


ヴィジュアライゼーション…現前化?宗教で大勢の信者が祈りを捧げるとその対象が姿を現すこと。

第8章、ヴォロジンの章。

 だがそのとき、だれにも捕まることのない、検事でも被告でも弁護士でもなお、第四の男が残っている。
(p334)


内面の(第7章では、ユンゲルン男爵が「内モンゴル」だと言っていた)そこにいる検事とか被告だとか弁護士だとかその他もろもろ、その誰でもない第四の男なるもの。

 要するに、スターリン時代の死後は反宗教的なもんだったが、現代には宗教が復活した…だが宗教のあるいま、今度は死後がスターリン時代みてえになってる。
 それで彼は国民を家族のように愛してて、国民のほうは腹の底からびびりつつ、心底彼を愛してるってことにしとかなくちゃならなかった。宗教みてえなもんだ。
(p343)


…引用したかったとこがまだ残っているような…

カラスと雪と多彩な色取り


第9章

 じつは僕自身それらの本を書いたとき、必死にその男を探そうとしていたということを。そして新しい詩ができるたびに彼を見つけるのは不可能だと僕は確信する。なぜなら、はじめからそんな男などどこにもいはしなかったからだ。
(p380)


これは先の「第四の男」と同一のものか。

 夢の奔流に押し流されると、その瞬間、おまえは流れの一部になる。なぜならその奔流のなかじゃすべてが相対的で、すべてが動いていて、拠り所になる場所がどこにもないからだ。渦に巻かれても気づくことはない。渦とともに本人も動いているから、何も動いていないように感じられる。そうして夢のなかに現実感が生まれる。だが一点、ほかのものと比較して動かないだけじゃなく、絶対的に不動のものがある。それが『知らない』だ。人は夢のなかでそこにようやくたどりついたときに目が覚める。
(p392)


p302に書いてあったこと、それからこの作品の構成全般に、この内容が絡んでくる。
小説「チャパーエフ」もこの「チャパーエフと空虚」もウラル川を渡ろうとして彼らは死ぬ。でも、70年以上を経て意味するところ、効果はまるで違っている。
(2020 10/25)

最終、第10章


 窓外には、雪をかぶったポプラの枝にカラスがいた。カラスは枝から枝に飛び移っている。カラスに止まられた枝がぱらぱらと雪を落とす。
(p426)


 外へのドアはある種の失望すら覚えたほど、あっさりとひらいた。コンクリート壁に囲まれた空虚な中庭一面に、雪がどっさり積もっていた。
(p428)


枝から枝へと飛び移るカラスは、今までの夢から夢へと飛び移っていた語り手自身のようだ。では落とした雪とは何だろう。次の文ではその雪が、空虚な中庭に積もっていた。
空虚な中庭というのは、冒頭p25の空虚を思い出させる。

ここからの記述はその冒頭第1章に立ち戻っているかのようだ。文学キャバレーも、マルメラードフも、客の顔から一つの金貸しの老婆が合わさるところも。
最後は、チャパーエフとその装甲車が現れて、乗り込む。

 相矛盾する多彩な色にいろどられた内面世界の渦を理解することは困難ですから
(p446)


先のカラスと雪のモノクロームの世界から、そこに到達する。物語が終わる。
(2020 10/26)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?