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「徹夜の塊 亡命文学論」 沼野充義

作品社

実は三部作

「徹夜の塊」(魂(たましい)ではなく塊(かたまり)、自分も間違ってた(笑))シリーズ1作目。2作目はすぐ隣にあってじつはそちらを先に手に取ってみた「ユートピア文学論」、3作目の「世界文学論」はもう原稿ほとんど揃っているとかこちらの後書きにはあるんだけど、出ていないのかな)。

 「起源」までさかのぼってしまえば、自分はまだ存在していないわけだし、「終末」まで行き着いてしまえば、自分はもう存在しない。われわれの生はこの「まだ」と「もう」の間に、つまり起源と終末の間に広がる居心地の悪い時空間を漂い続ける宿命なのだ。 
(p3)


それを一目瞭然に分からせる存在が「亡命者」なのだという。また続く章によると、「亡命者」というジャンルは近代になって現れた比較的新しい概念なのだという。
(2016 12/11) 

亡命できない人々、そして言語


昨夜のそれから 亡命文学論は亡命した人だけでなく、亡命しなかった人も合わせることが必要になる。特に旧ソ連では亡命しないことを選択した(つまり瀬戸際まで追い詰められた)作家が多い。あと、言語の点では、母語にも新しい環境の言語にも切り離されているわけだけど、それは実は新しい言語表現のチャンスでもある。ここは現在では、亡命だけでなく様々に言語を選択し母語使用者では作れない作家語みたいなのが次々に出てきている。 そして、宇宙へ(嘘)… 
(2016 12/12) 

アメリカと死の近似


昨夜の「亡命文学論」から。ソ連時代のアメリカへの亡命作家の回想録によると、渡米後はいろいろな職業を転々としたという。その中で周りでは使われていない自分の言語での文学を続けていくのはかなり精神力がいる。またロシア語で死のことはスメルチというが、アメリカという言葉と真ん中にあるmerが共通している。だからかドストエフスキーの「カラマーゾフ」や「罪と罰」では、アメリカが死の世界の表象として使われている。 まだまだ… 
(2016 12/14)

内なる亡命者


「亡命文学論」が大変なことになってきている(笑)。買わなきゃだめかな・・・ まずはカフカ。

 カフカにとって言語生活とは、常に相反する力と力がぶつかりあうことによって形作られる緊張関係のことであり、そこには「母の言葉」ー最後に帰って来ることができる拠点ーの安らぎはなかった。 
(p95)


この意味でカフカを「内なる亡命者」と呼び、カフカ独特の妙な言葉もその意識から生まれたとしている。イディッシュ語は昔のドイツ語のユダヤ的変形であり、ドイツ語話者にとっては理解はできても、それをドイツ語に訳すのはそれ故に不可能とされる。ガタリとドゥルーズは「マイナー文学のために」でそのことに触れているという。

一方、カフカの死後、チェコ人作家のカフカ受容、あるいはカフカ的世界に関する後半の章。シュクヴォレツキーとクンデラ、共に今は亡命文学者となった二人のエッセイから。シュクレヴォレツキーの方はチェコ語訳(あ、そうそう、忘れがちだけど、チェコ人にとってカフカは翻訳で読むもの)「城」を「フランチシェク・カフカ著」として見つける。ナチス政権下にあってカフカは禁書であったが、このチェコ人っぽい名前によって、プラハの古本屋に残っていたのだった。
さて、故郷のナーホトからプラハにやってきた理由はジャズ・フェスティバルのため。「城」を見つけた彼は友人のジャズミュージシャンのところへそれを見せに行くが、「カフカとの対話」のグズタフ・ヤノーホがジャズの演奏技法の本を書いているということを知らされる。シュクレヴォレツキーにとってはジャズの本の方が既知であったが、今の私達には逆だろう。というか、ナチス政権下でグッドマン始めジャズがそんなに聴かれていたということに驚いてしまうのだが。

クンデラのエッセイについては、これも「城」を始めて15歳の時に読んだ時の「目のくらむような光」を感じた理由についてのところから。

 詩人が詩を考え出すのではない 
 詩はどこか彼方に 
 ひとりで存在している 
 詩は果てしなく長いあいだずうっと 
 そこに存在し続けてきた 
 詩人の仕事はそれを発見するだけのこと 
(p101ー102 ヤン・スカーツェルの詩から)


 カフカもその彼方にある「詩」を見つけたということ。このクンデラのエッセーは「小説の精神」に紹介されている。とともに、「どこか彼方に」というエッセイのタイトルも合わせ、「生は彼方に」とも繋がっているらしい。 
(2016 12/18) 

ロシア文学の伝統から分かれた枝


まずは亡命詩人ホダセヴィチのこの言葉から。

 シーリン(ナボコフの当時の筆名)は自分の手法を隠そうとしないどころか、むしろそれを外に突き出すのである。まるで、観客を驚かせてから、すぐに自分の奇跡の手の内を見せてしまう手品師のようだ・・・(中略)・・・それらの手法たちは作品の世界を構成し、結局は自ら、なくてはならない登場人物となってしまう。 
(p106ー107)


ロシアの多くの作家や批評家から批判を浴びるナボコフの異質さ、「非ロシア性」は、手法の優越性とそれから虚構性。これら二つともナボコフが突然持ち出したものではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての「銀の時代」、ロシアアヴァンギャルドから受け継がれてきているものだ、という。ナボコフ自身もエドマンド・ウィルソン宛の手紙で「銀の時代」との繋がりを述べている。

さて、ソ連ではペレストロイカ以降徐々に、そしてナボコフの遺族が苛ついてしまう(中には校訂のしっかりしていない版もあったり)ほどに多量のナボコフ作品が流入する。ただ、それ以前にもアメリカのロシア語出版社から訳されたナボコフの本が持ち込まれて「ナボコフサークル」ができていたという。そして、これも当然そうやって多量に流入してきたナボコフに関して、時の経過とともに期待し過ぎのための反動も生まれてくる。

その中で、ナボコフ愛好の文学者は従来のロシア文学とナボコフとの接点を提示する。エロフェーエフは「失われた楽園を求めてーナボコフのロシア・メタ小説」という本で神秘的・超越的な「上」の方向へ向かうベールイのロシア象徴派に多くを負っているのだが、超越性「上」への方向性に会議を抱き、「横」すなわち虚構に進んで行ったという。
またビートフは「不死の明晰さ」という文章で、ロシア文学が革命によって寸断されていなかったら、ナボコフこそがロシア文学の継承者となっていたのではと考える。ナボコフは「その仮想上の文学から分かれた枝」なのだという。またロシアだけでなくアメリカでもナボコフを20世紀初頭のロシア文学・思想とつなげて見る見方が出てきている(ヴラジーミル・アレクサンドロフなどによる)。 (やっと終わった・・・読んでいる時は楽なんだけどね) 
(2016 12/18) 

ナボコフ=ウィルソンとベルベーロワ


「亡命文学論」。前の和田忠彦「ファシズム、そして」みたいに三部構成の真ん中が様々な媒体からの様々な分野からの寄せ集めになっている。 
まず第一部からナボコフ続き。ナボコフ渡米から親友となり、そして決裂したエドマンド・ウィルソン…ロシア革命についての齟齬、多分その辺りが原因で、直接には「オネーギン」のナボコフの英訳を巡って喧嘩別れになってしまう。この往復書簡って邦訳されてたかな。

ごった煮第二部からはベルベーロワのところ。父方のアルメニア系、母方のロシア系、その双方の「継ぎ目」が自分だという。

私の生のすべては、自分自身の内で矛盾を和解させる試みだったのだ。多種多様で、しばしば互いに正反対な特徴がすべて、私の中でいまや溶け合っている。だいぶ前から私は自分が二つの部分からできているとは感じなくなっている。そして、肉体的に感じとっているー自分の体を通っているのは切り口ではなく、継ぎ目なのだと。 
(p142)


ベルベーロワで邦訳があるのは「伴奏者」という中編のみ。20世紀全体に拡大されて書かれた自伝的作品「強調は筆者」というのもある。 そういうタイトル… 
(2016 12/19) 

バレエリュスとアクショーノフと亡命ロシア料理


というわけで… 「亡命文学論」ごった煮第二部から。バレエリュスのところではその前身「芸術の世界」には画家が一番多かったが総合芸術をめざしたということ。ディアギレフ没後の後継バレエ団では日系人ダンサーもいたそうな。

亡命ロシア人第三の波(1970年代~)の作家のアメリカへの眼差しからは、二番目に挙げられていたアクショーノフ…彼はアメリカに自分の居場所があると感じるのはアメリカが移民の国だからかと述べているアメリカから離れまた戻ってくると「帰ってきた」とも感じるそう。

最後の亡命ロシア料理はそういうタイトルの本の(たぶん)後書きから。先の亡命者のアメリカ眼差しの章のラストにも出てきたワイリとゲニスというコンビ?料理の望郷の念から綴るエッセイ仕立て。ロシア文学ではあまりない軽妙なエッセイというのも魅力だが、ロシアでは詩の盛期には料理や酒の表現が増え、散文の盛期には料理や酒の表現が衰退する…というのは散文好きにはちょっと残念な話。このコンビ、この他計6冊の本出していてどれも面白そう。その後はそれぞれピンの活動らしいのだけど… 
(2016 12/20) 

ドヴラートフ2編


「亡命文学論」ドヴラートフの章。邦訳されているドヴラートフの作品2冊(「わが家の人びと」「かばん」)のそれぞれの解説から。
ドヴラートフは沼野氏お勧めの作家、どの作品も自分の周囲にある題材を使い、また連作短編集的な中編が多く、妻や兄などがカリカチュアされ、また一口噺(アネクトード)の味わいもあり、様々な文学的実験に疲れた?ロシア文学の「癒し」の「まとも」な作家らしい。1990年に早世してしまった。
一番笑ったのがオクジャワの話。「ブロツキーだけじゃない」というロシア著名文化人についての写真(写真家は別の人)+アネクトード集から、オクジャワの誕生日を祝う電報に「少年兵よ、達者で!」(これはオクジャワの初期の作品の名前)と打ったという。後にオクジャワに会ったドヴラートフはこの電報を覚えているか聞いた。そしたらオクジャワの答えは「その時は電報を百通もらったけど、そのうち八十五通が「少年兵よ、達者で!」だったよ」…と、ここまではドヴラートフの話で、沼野氏がその後オクジャワに会った時に聞いたらそんな電報自体もらってないだって…とありそうな創作アネクトード…こういう延長線上に彼の文学はあるのだろう。

最後にドヴラートフのインタビューから。

ロシア・アルメニア・ユダヤと様々な背景を持つ彼がどのアイデンティティーを持つかと尋ねられて、職業としてのロシア人と答えた。 それは、つまり、私はロシア語で書く。私の職業はロシア作家だということですよ 
(p193)


(2016 12/22) 

境界と嘘


「亡命文学論」から。 シンガー亡き後、イディッシュ後で書く作家はいるのか。 亡命文学、それは様々な境目にいる、それを強みにもした文学とも言える。ボウルズのタンジールものにも沼野氏はそれを指摘する。

 あらゆる境界を自由に超えているように見えて、実は他社としての異文化との違和感にこだわり続け、結局は境界そのものの上に留まることによって独自のものを作り出している 
(p238)


続いて1991年に出た2冊、中沢新一「東方的」と今福龍太「クレオール主義」。前者が別次元の接触からなる垂直的思考ならば、後者は多地域を結ぶ水平的思考。両者ともロシアと関係ないように見えて、実はロシアへの言及多いと沼野氏。 「とどまる力と越えて行く流れ」(ロシアでは民族主義も含め政治思想は主に文芸雑誌が担ったという)からは2つ引用を。

 ここで起こっているのは、大国の行動を小国がミニチュア化さた形で模倣・反復する、「マトリョーシュカ現象」とでも読んでみたい事態である。 
(p263)


こことはグルジアやバルト三国など、独立した国の中での民族問題。イスカンデルが懐かしんでいる?ように、他の少数民族も代表してものを書く精神はなくなってしまったのか。

 そして、二つの言語で同時に話すようになったーということは、嘘をつき始めたということだ。なぜならば、嘘とは、かつて同じ起源を持っていたのに、今ではばらばらになってしまった事と事の間をつなぐ唯一の橋だからである。 
(p268)


ジノヴィイ・ジニク(この本のp37ー38でも取り上げている)から。本当にもともとは同じ起源なのかは置くとして、ここでは果たして嘘が否定されているのか肯定されているのか…おそらく両面あるのだろう。 あとはクンデラのフランス語使用についての戦略(の変化?)も気になる。赤塚若樹「ミラン・クンデラと小説」水声社に詳しいという。 境界だから?

亡命の先には


「亡命文学論」先程読み終えた。
ラストは「ロシア文学の境界」。またも境界。 エスニシティでは、今まで挙げていた作家の他、ゲンナジー・アイギ(ヴォルガ川中流域に住むチュルク系少数民族チュヴァシ人の詩人)、チンギス・アイトマートフ(キルギスタン出身、ペレストロイカ初期に「断頭台」でロシアを舞台にした小説を書く)、アナトリー・キム(朝鮮系ロシア語作家、「リス」など)、ユーリイ・ルィトヘウ(シベリア北東部のチュクチ人作家、チュクチ人はロシア人に会うまで文字を持たなかった)などなど。 また「戦争と平和」が冒頭始めいろいろなところで原文にフランス語が混じっているとは始めて知った。

 こうして獲得した領土は、ロシアにとっては、半ば他者のようであり、また半ば自己を拡大したもの(肥大した自己)のようでもあるという、特異なステータスを得ることになった・・・(中略)・・・つまり、周辺に領土を拡大していったロシアは、どこまでが自分で、どこからが他者なのかも定かでない身体となったのである。
(p322ー323)


現代ロシアにおいてポストコロニアル文学論がいまいち浸透しないのはそのためではないかという。あとジェンダー理論もまだまだ浸透していない。 一応読み終えたけど、そばに置いときたい気もするのだけれど。 
(2016 12/26)

補足:ミラン・クンデラ「小説の技法」から

「生は彼方に」

「亡命文学論」(沼野充義)に「小説の技法」(旧版では「小説の精神」)というクンデラの評論集のことが書いてあった。
カフカの「城」を始めてクンデラが15歳の時に読んだ時、「目のくらむような光」を感じたという。
続けて「亡命文学論」はヤン・スカーツェルの詩を紹介する 。

 詩人が詩を考え出すのではない 
 詩はどこか彼方に 
 ひとりで存在している 
 詩は果てしなく長いあいだずうっと 
 そこに存在し続けてきた 
 詩人の仕事はそれを発見するだけのこと 
(p101ー102)


カフカもその彼方にある「詩」を見つけたということ。とともに、「どこか彼方に」という詩句は、このエッセイのタイトルそのものでもあるのだが、「生は彼方に」を思い起こさせる。 

「小説の精神」

ということで、クンデラの「小説の精神」の当該エッセイ「その後ろのどこかに」を読む(同じ本に収められた「構成の技法についての対談」では「生は彼方に」の構成、上記アダージョ、プレストについても書かれている)。微妙に上記沼野氏の記述や訳と違う。
まず、ヤン・スカーツェルの詩から。

 詩人たちは勝手に詩を作り出すのではない
 詩はその後ろのどこかに、
 遠い、遠い昔から存在しているのだ
 詩人はただその詩を見つけるだけだ
(p160)


上の詩の方が、日本語としては巧みな気もするが、「四行詩」ということだから、下の方が原詩には沿っているのか。

 のちになって、私の視覚は「詩」の光に慣れていき、じぶんを眩惑したもののなかにみずからの経験を見はじめたが、あの光はつねにそこにある。
(p161)


カフカ「城」を読んだ体験(ここでは14歳となっているが)。

 詩人は人間の可能性の一つ(「遠い、遠い昔から」すでにそこにある「詩)を「ただ見つける」だけなのであり、〈歴史〉もまた、いつの日かその可能性を見つけることになるだろう。
(p162)


クンデラのいう詩とは、「生は彼方に」で描かれていた「踊る」詩とは違う、いや最初は踊る、眩惑されるのだが、また詩人は新たな人間の可能性を見つける旅に出なければいけない、そういうことか。
(2020 03/24)

関連書籍

(ビートフ、エロフェーエフの作品収録)

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