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自己紹介

壁打ちだけど、自己紹介。
自己紹介も、もはや壁打ち。
返ってくることなど、ない。帰る気もない。

自己紹介


名前:ふみ
性別:女
年齢:アラサー
病名:双極性障害・ADHD・PMDD・メニエール
手帳:3級(働けなくても動けなくても級変わらなかった)
職業:フリーランスの作詞家。
   収入ほぼないので実質ほぼ無職。
  (たまに知り合いのお店の手伝い)
趣味:カメラ
好き:バンドサウンドの曲・アーティスト
嫌い:パクチー
苦手:音色の多い音楽。頭が疲れてしまう

生い立ち

いわゆるデキ婚で生まれた私。
当時の母親「どうしよう…」
幼少期に両親が離婚。
調停中数ヶ月もの間隣県の親戚の家に預けられ、2歳の誕生日を両親不在で知らない土地で祝われる。
親権が決まり母側に付くも、別れたはずの父に誘拐されかけたことがあるらしい。(祖父、当時のスーパーのパートのマダムの証言アリ)

小学生


小学校の頃は母と二人ぐらし。男が何人か変わった。
名前を覚えられなくなり、Aさん、Bさんと呼ぶようになった。
とにかく顔色をうかがって生きていた、母と男の。
自室で一人で絵を描いているときに聞こえてくる隣の部屋からの笑い声は全部自分のことだと思っていた。
私が描いてる絵が変なんだ、下手なんだ、と一人でノートを破いていたことを覚えている。
テレビの穴という穴にテープを貼ったこともある。家にいる間は監視されてると思っていた。
その割には放任主義。小学生が22時まで帰らなくても心配せず。
鍵をなくして23時まで探していて、帰宅したら鍵のことだけ怒られたのも覚えている。
あと風邪薬とプリン投げられたり、とにかくものには当たる母親だった。地雷原多すぎ。
風呂に入らなすぎて頭にシラミ沸いたのもこれくらいの時期。高学年。
一時的に不登校になった。学校が嫌なのではなく、起きれなくなった。急に。
数カ月で勝手に治った。
今思うと双極性障害の鬱の症状の始まりだったのかもしれない。

中学生


シラミに凝りて2.3日に一度は風呂はいるようになった。
1年生の間はとにかく暗い子だった。
2年生になり急に人が変わり、いわゆる"明るい子"になった。
これももしかしたら双極性障害の躁転の片鱗だったのかもしれない。
中学、宿題は一度も提出した記憶がない。
休み時間や放課後に正担任監修のもとやらされた。なので提出はしている。えらい。
小論文系の提出物で
「あなたは文章がちゃんと書ける。いい文章書けるんだからちゃんとやりなさい。そこで評価落ちるのが勿体無い」
と担任に言われ、初めて「ここはだめだけど良いところがある」という説教のような、褒めのようなちょっと、心が暖かくなる言葉をもらった。
母から褒められた記憶など、ない。
「あいつ頭おかしいから図工美術の作品みんなと違うの」
母のこの言葉と先の担任の言葉は忘れられない。
部活は2年半の間、真面目にやった。音楽が好きだった。吹奏楽が、続いた。
割と毎日が楽しかった。家にいるとき以外は。
3年の途中で部活に行けなくなったのも、もしかしたら鬱だったのかもしれない。

高校生


2年生までは割と平和だった。
2年生の途中から一人の仲良しグループの子に避けられ始めた。
当時流行っていた個人ブログでも、私と道端で遭遇しただけで
「今日はちょっと…な出会いがあった」
と書かれて色々察し、確信した。
何も身に覚えはなく、他の子にもあいつがおかしくなっただけと、言われたが
私は悲しくて悔しくて虚しくて、保健室で泣いた。
気づいたら保健室登校になっていた。
いつからこんなに心が弱くなったんだろう、自分でも不思議だった。
学校に行かないと母から怒られ、
早退しても怒られ、
登校中過呼吸を起こして休んでいたら母から怒りの電話が来たこともあった。
学校を早退し、帰路についたときも母が怖く、家に帰りたくなく過呼吸を起こしていた。
鬱がでていたのだろうか。
ついに保健室のし先生市心療内科を勧められ、そのまま引っ越しで転院を重ねつつ今にいたる。

まとめると、家庭環境が複雑で人の顔色を伺いすぎる人間になったつもりが
双極性障害とADHDによりタイミングによっては結局人にほんのり嫌われる生き方になってしまった人間です。そう、嫌いとまではいかない。
なんかちょっと嫌い(苦手)なんだよね…枠に入れられがち人間です。

またなにかあったら書きたそう。
壁打ち自己紹介でした。

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