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61第六章 空き部屋 19-血の繋がり

 勝治と決別後、真琴は大学を中退し、冬子と共に遠方の地に移り住んだ。
 それから数年を経て、冬子は第一子…瑛子を出産する。贅沢な暮らしはできずとも、家族全員仲睦まじく暮らしていた。
 そんな彼らのもとに、突如勝治の秘書を名乗る男がやってきた。今から五年近く前、瑛子が三歳の頃のことである。
「結婚?」
「はい。社長より、真琴様に結婚のお話を、と」
 自分の居場所を何故知っているのか。それはもはや問題にならなかった。まさに晴天の霹靂。結婚?自分が?
「あの。俺はもう、家族がいる身なんですが」
 自宅近くの喫茶店。冬子は呼ばなかった。初対面で彼女を罵った勝治のことだ。彼の差し金ならば、またも彼女の尊厳を傷付けることを言うかもしれないと思った。
 存じておりますと、男は会釈をする。それから男はバッグから封筒を取り出した。分厚く、白い封筒。
「ですので、これをと」
口が開いた中身を見た瞬間、真琴の頭に血が上った。封筒を下に投げ捨てる。封筒の口からは万札がばさり。床は金の海へと様変わりした。
「何をされるのです」
「なんだこの金はっ。これで、冬子と別れろ。そういうことか」
 ひどく興奮する真琴に動じることもなく、男は深く頭を下げた。「不快に思われたこと、大変申し訳ありません。ですがこれは、真琴様の未来を思ってのことなのです」
「俺の、未来?」
 男は続いて、一枚の写真をテーブルの上に置いた。真琴は息を整えつつ、それを見る。写真には長髪の、切れ長の目をした、美しい女性が写っていた。
「彼女、ご存知ですよね」
 真琴は答えなかったが、確かによく知っていた。彼女の名前は芳川志織。藍田製薬と競合する、芳川薬品の社長令嬢。彼女とは、学生時代父親に連れられて臨んだ社交会で、何度か対面し会話をした記憶がある。父の貴明に似て、横柄な態度の女。真琴の彼女の印象はお世辞にも良いとは言えなかった。
 その頃より整った容姿だったが、成長した写真の彼女は、更に磨きがかかった様子。周りの男共が放っておかないだろうと思える程、美しかった。
「真琴様の正しい未来。それは、彼女と結婚し、藍田製薬を継がれることでしょう」
「…本音を言え。俺の未来なんて、少しも思っていないだろ」
「そんな、滅相もない」
 わざとらしく否定する男を一瞥し、真琴は志織の写真を裏返した。「政略結婚だろ」
「言い方にはお気をつけください。ですが」こほんと空咳をした後に、男は真琴の目を見た。「真琴様が、芳川志織と夫婦になること。それを望む方々がいるということ。それは、否めません」
 秘書の男によれば、志織は真琴との結婚に賛成なのだという。しかし真琴はそれを、飲むわけにはいかなかった。
「親父は俺に縁を切れと迫ってきたんだぞ。何を今更…」
「社長の真意は、私には分かりかねます。ただ、お年を召されて、心境としてはさぞかしご不安なのでしょう。だからこそ、血の繋がりのある、真琴様の存在を求めているのだと思います」
 血の繋がり。その言葉は槍となり、ぐさりと心の臓に突き刺さった気がした。
「それに、雛子様もそうした方が良いとのことですので」
「雛子?」
「ああ、ご存知ありませんか。社長、数年前に再婚されたんですよ」
 寝耳に水だった。聞けば、年齢は本人よりも二十近く下、元々雑誌のグラビアを飾っていた芸能人だという。歳の差は、夫婦というより親子ではないか。
「いかがです。誰も反対する者などおりません。真琴様にはこれから東京に戻り、芳川志織と懇意にしていただきたく」
「ふざけるな、俺には俺の家庭があるし、人生があるんだ。それが欲しくて、親父とは縁を切ったんだぞ。ようやく掴んだ幸せを、自らの手で壊せって?そんなこと、了解できると思うのか」
 真琴は目を閉じ、冬子と瑛子の姿を頭の中で思い浮かべる。自分は、彼女達がいれば、もう何も要らないのだ。いくら金を積まれようが、絶世の美人をあてがわれようが、考えは変わらない。それは間違いなかった。
 しかし、その時の真琴はわかっていなかった。血の繋がり。それを求める者達の魔の手は、想像以上に強大であることを。

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