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短編その9 鯉に恋して、そばにいて

文字数:1,600字程度
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 そのお寺の境内には、自然豊かな池があります。
 その中に一匹、大きな錦鯉が住んでいました。全身が白に赤の鮮やかな模様、丸々と太ってもったりと動くその様は、池を見る何者も魅了していました。

 そんな鯉は、先月からある女性に恋をしていました。
 彼女は人間で、同じ脊椎動物といえども魚類の鯉とは種が違います。そうだというのに、鯉はその女性を好きになってしまいました。

「はあー、また仕事で怒られちゃったよ」

 彼女は大抵、週末にやってきます。話の大半が、仕事への愚痴のようです。いつものようにスーツ姿で、池の塀に肘をつき、片手を耳許にあてながら。

「何がいけなかったのかなあ。プレゼン資料、私なりに分かりやすく作ったはずなんだけど」

 鯉は仕事の内容なんて、分かりません。そもそも、仕事というものがなんなのかさえ、知りもしません。ただ、ここに来る人間が「仕事運」を祈る程に、彼らにとって重要なことなんだろうな…とは思います。

「明日も仕事だよー。なんだかもう上司の顔、見るだけで最近緊張しちゃうんだよね。心臓がどきどきする。また怒られるんだろうなあ」

 心臓。それなら分かります。鯉にも心臓がありますから。こうして水の中をゆったり漂うことも、それがあるからできることなのでしょう。
 どきどき。それも分かります。鯉が彼女のことを見た時。彼女が何気なく、鯉に話しかけてきている時。鯉はなんだか、体の内側がふわふわと落ち着かなくなります。これが所謂「どきどき」するということなのでしょうか。

「まあ、働くってこういうことなんだろうね」

 彼女はどうやら、仕事をはじめたばかりのようでした。まだまだ半人前ということでしょうか。物事がうまくいかず、周りと比較され、落ち込む毎日なんだと思います。
 鯉は産まれてからずっと、この池で過ごしています。ここで産まれ、これまでに沢山の人間を見てきました。彼女みたく半人前の人間も、数多く訪れます。それを見るたび「ああ、人間って大変だな」とぼんやり考えます。

「ま、頑張るしかないかあ」

 でも。そんな半人前の彼らを見ても。鯉は人間を羨ましく思っていました。なんたって、彼らはこの寺にやってきて、参拝してお祈りをすれば、どんなに辛いことがあろうとも前を向けるのですから。明るい未来を生きていけるのですから。やはり人間は良いな、面白いなと鯉は思うわけです。

「よし、少し元気出てきた。ありがとね」

 彼女は鯉と目が合うと、にこりと笑みを浮かべました。自分のお陰か分かりませんが、彼女の笑顔で、心臓がどきどきし始めました。鯉は、改めて彼女に恋をしていることを実感するのでした。
 彼女は鯉に背を向けました。耳許にあてている手には何やら、四角い長方形の物が握られています。

「とりあえずどこにいる?あたし、いつもの待ち合わせ場所に来たんだけど」

 数分後、彼女の知人とみられる男性が現れました。
「ごめん、お待たせ」男性の手にも、彼女が手に持っている物と似た、長方形の物体が握られていました。彼女は男性の顔を見ると、ぱあっと明るい表情を浮かべました。
「今日のお昼、近くのお蕎麦屋で食べたい。早く行かないと、席埋まっちゃうよ」
「良いねえ。どうせなら外の席で食べたいな」 
 そうしてそのまま、彼女は男性の手を取り行ってしまいました。


 鯉は、彼女の後ろ姿をじっと見つめます。いつも、こうして彼女は去っていきます。お決まりのパターンです。
 蕎麦屋なんかじゃなくて、もっとこの池に…自分のそばにいて欲しい。たとえ自分に話しかけていないと知っていても、ここで笑顔を見せて欲しい。そう願っても、どうやら人生…いや、魚生でしょうか。早々うまくいかないもののようです。
 それでも鯉はめげません。また彼女とは、週末に会うことができるのですから。
 次の週末までに、もっと彼女に意識してもらうにはどうすれば良いのでしょう。ハートの形に鱗を揃えてみましょうか。尾で水面を叩き、水飛沫を飛ばしてみましょうか。
 彼女に振り向いてもらえるまで、鯉の恋は続くのでした。

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