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59第六章 空き部屋 17-本物と偽物

「あなたは…」尚哉は頭の中で情報を整えながら、檻の向こうにいる彼女に問うた。「志織さんじゃない、のか」
 彼女は藍田志織。容姿に間違いはない。そのプロポーションの具合は、早々いるものではない。
 しかしありさは、彼女を「姉さん」と呼んだ。尚哉の記憶では、志織は一人っ子で、兄弟姉妹は存在しない。
 別人。彼女の顔をした何者か。
 既に、尚哉の頭には彼女の名前が浮かんでいた。
 志織は若月に向けていた拳銃を下ろした。そうして、力なく笑みを浮かべた。
「何を言っているの。私はあなたのお姉さんでも、なんでもないわ」
「いえ、あなたは私の姉。私達の体の中には、あの母親と同じ血が」
「黙りなさい」
 志織の冷たくも怒りを含んだ声に、ありさは閉口する。そこで尚哉が、彼女の跡を継ぐように、核心に触れた。
「あなたは、藍田冬子さんなのか」
「藍田、冬子?」若月はぽかんとした表情で、彼女を見る。彼からしてみれば知らない人間だ。呆けた様子になることも、無理はない。
 志織は喋らない。尚哉を見向きもしない。視線はありさに向けたまま。故に、尚哉は話を続け易かった。
「君達は実の姉妹なんだな」
 ありさは肯く。「ただ、幼い頃に生き別れたのですが。つい数年前に再会して」
 大きな金属音が、室内に響いた。志織が鉄格子を強く蹴ったのだ。
 反響した音が鳴り止んだところで、志織は大袈裟に溜息をついた。
「ほら話も、こんなところで話せば真実味を帯びてくるものね。でも、たとえその話が本当だったとしてもよ。それを今ここで話すことで、何になるのかしら。あなた達は、檻から出ることはできない。まあ、出しもしないけど。わかるでしょ、こんなことを話していても、意味が無いの。あなた達は終わりなのよ」
「それは姉さんも同じでしょう。芳美さんも孝司君も、二人の代わりにはなれない。孝司君は刑事さんを殺さない。そうね。もう、終わり」
 志織は険しい表情でありさを睨む。尚哉と若月は、彼女達の会話の内容が全く理解できていなかった。
「なあ」若月は志織に目を向けたまま、ありさに尋ねる。「あの女はどうして俺に、芳川尚哉を殺させようとしたんだ」
「私は姉さんの命令で、あなたに近づいたの」ありさは若月の問いに、ゆっくりと応えた。「姉さんは言ったわ。真琴さんの代わりとしての遠藤、姉さんの代わりとしての芳美さん。二人も含めて、藍田家の全員を手にかける。それらの罪を、全てあなたに被ってもらうって」
「…そのために、俺を?」
「さっきも言ったけど、別に孝司君じゃなくても良かったのよ」ありさは俯く。「藍田か芳川。両家の誰かに、恨みを持つ人だったら」
「どうして芳川家も、なんだ」
 尚哉もありさに訊く。突然話に出てきた芳川に思わず反応してしまった。「しかも芳川薬品じゃなくて、芳川家なんだろ」
「待ちなさい」と志織が声をかけた。銃口をありさへと向ける。「本当にもう、やめなさい。彼らは無関係よ。何度言ったらわかるの」
「無関係じゃ無い!」ありさの突然の大声に、今度は志織が口を閉じた。
「孝司君と刑事さんの二人は、私達の都合で巻き込んだ。つまり、私達がそうさせたのよ。知る必要が無いですって?それは、あまりにも酷よ」
 彼女の揺るがない意思を感じ取ったのか、志織は諦めにも似た表情で、かぶりを振った。そうして「分かったわ」と一言。
「姉さん…」
「もういいの」
「でも!」
「その先は私が話すわ」淡々とした声色だった。「だから、あなたはもういい」
 懇願するような瞳のありさを一瞥し、志織は拳銃の銃口を床へと向けた。
「もう一度聞くよ。あなたは、藍田冬子さんなのか」
 志織は尚哉をじろりと睨め付けた。しかしその数秒後、静かに「そうよ」と肯いた。
「…彼女は、亡くなったはずだ」
「死んでいなかった。それだけよ」
「そんな馬鹿な」
 人の死を偽装する。口にするのは容易だが、死亡届を役所に出せば終わる話では無い。戸籍や税、年金や相続。そのためにはいくつもの障壁があり、そうした手続のたびにその人の死を証明しなければならない。制度が整っているこの国で、生き人を死人として扱うことが、どれだけ大変か。
「ええ、そうよ。私は、書類上じゃ死んでいる。でも、こうして生きている」まるで何か、解放されたかのように、志織…いや、冬子は、天井を見上げて一つ息を吐いた。
「その顔は?」
「整形したの。真琴さんの伝手よ。腕は上手いけど、いわゆるもぐりの」
「そこまでそっくりになれるものなのか。本人みたいだ」
「褒め言葉として受け取っとくわ。でもよく見ると、ディティールは違うのよ。人は完全に、他人の外見に成れる訳じゃないみたい。案外、人は人を見ていないようね」
 志織の顔をした、別の人間。ちぐはぐな状況が現実であると理解していても、やはり違和感を覚えざるを得なかった。
「志織さんに成り代わったのは、いつから?」
「真琴さんとの結婚式の後かしらね」
「あの時から…」
 そうなると、尚哉が結婚式で見た志織は、本物だったことになる。なるほどと思った。だからこの前藍田家で彼女に会った時、彼女は自分を知らなかったのか。
「本物の志織さんはどうしたんだ」
 その問いに冬子は答えなかった。
「姉さんが志織さんだった。それでわかるでしょう」ありさが代わりに応える。
 冬子は志織として、この家で過ごしていた。となると、本物は邪魔でしかない。
 彼女はもう、この世にいない。そういうことなのだろう。
「でも、仮にあなたが死んだことになっていたとしよう。そうなると、俺達警察の捜査はどうやって」尚哉はそこまで口にして、思い当たる節があった。「署長か」
「現場検証の結果を改ざんしてもらったわ」
「どうして署長があなたのその、手伝いを?」
「五年前に、違法カジノの摘発があったらしいの。尚哉さん、知っているかしら」
「ああ、それなら」つい先日、野本から聞いたばかりの話だ。「それが一体…」
「それね、どうやらその場にいたらしいの。客として」
「なんだって?」
 考えにくいことだった。あの真面目を絵に描いたような男が、違法カジノだなんて。
「ああ。本人じゃなくて、甥の子ね。言い方が悪かったわ。何だか、悪い仲間に唆されたみたい」
「甥の、子?」自分が知っている中で、該当する者は一人しかいない。まさか。息を飲み、続けた。「…橋本?」
 馬鹿な。尚哉は愕然として、冬子を見た。「間違いないわ」と肯く彼女。ありさも否定しない。あくまで彼女達がそう言っているだけに過ぎないのだが、彼女達の発言は、嘘に思えなかった。
「もしもそれが本当なら、どうしてそのことを俺達の誰も、知らないんだ」
「それはね。現場の捜査官の一人に指示して、上手く甥の子を逃したんだって。本人が言っていたことだから確かな話よ」
「…警察官として、あるまじき行為だ」
「そうね」
「それで。署長の弱みを握って、あなたは自分を死んだことにしたのか」
「ええ。彼、驚いていたわ。私達がそのことを知っていることに」
「確かに。何故あなた達が知っているんだ」
「ふふ。もう、分かっているんじゃなくて?」
 冬子は鉄格子を縦に、人差し指でなぞる。彼女の言うとおりだった。尚哉は肯く。「情報の出所は、柏宮さんだな」
 彼女は微笑んだ。「そそ、探偵さん。ありさちゃんと協力して、若月さんを騙した」
 冬子の言葉に、若月は大きく目を見開き「やっぱり」と小さく呟く。
「…柏宮は、少し前まで私の恋人だったの」ありさはぼそりと話し出した。「姉さんから協力を持ちかけられて、まずは情報が要ると思った。そこで、今は探偵をやっている彼のことを思い出して頼ってみたの。でも、妙な縁があったものね。お陰様で、大きな後ろ盾を持つことができたの」
「幸か不幸か、藍田製薬を継いだ真琴さんと妻の私は、発言と影響力が一般人とは違うもの。大河内さん、焦ったみたいね。でも、身内の仕出かした痴態とそれを隠蔽した事実を、形式上、たった一人死人扱いにするだけで隠せるのだから」
 己が隠匿した事実が、冬子と真琴の口からどれ程まで広がっているものか、分かったものではない。彼女達の口を封じるには、彼には選択肢がなかったのだろう。
「でも、そんな橋本を、何故あなた達は殺したんだ」
 そこで尚哉は、橋本の無惨な遺体を思い返した。彼の存在が大河内の弱みの根幹なら、それを自らの手で無くす意味が分からない。
「私達の操り人形になる代わりに、お願いされたのよ。手のかかる甥の子を、殺して欲しいって」
 顔を青ざめさせた尚哉に、冬子は淡々と述べる。「でもね、単に殺すんじゃもったいない。どんなものでも、使えるものは使うべきと思ったのよ」
 大河内には言わずに、冬子達は橋本を呼び出した。すると、すんなりと己の罪を白状したという。
「それからは私達の言いなりね。でも彼、予想以上に働いてくれたわ。きちんとあなたを病院まで来させたし。でもあなたが駐車場に来たところで、彼は用済みになったわ。だから殺したの」
 尚哉はまるで、パズルのピースが一つ一つはまっていくような感覚に囚われた。しかし爽快感は無い。むしろ、余計にパズルの完成からは遠のいているような。錯綜する情報に、頭が痛くなってきた。
「でも、どうしてそこまで…」
「そこまでして、私が何をしたかったのかって?」
 尚哉の発言の途中で、冬子は割って入った。まるで何を聞きたいのか、分かっていたかのようだった。
「この藍田家という呪縛から、私達の家族を解き放ちたかったの。ねえ、真琴さん」
 彼女の声に、一同部屋の扉に目を向けた。そこには、先程出て行った真琴の姿があった。

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