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62第六章 空き部屋 20-逃げることはできない


 秘書の男が現れてから、家族…いや、冬子が事件や事故に巻き込まれるようになった。
 車に轢かれそうになったのが数件、不審者に付き纏われたのが数件。軽症ながらも、怪我をすることもあった。
「お義父さんの、仕業よね」
 ある日瑛子が寝た頃を見計らい、冬子はそう切り出した。真琴も同意見だった。真琴が要求を拒絶したことが、彼に伝わったのだろう。
 しかし勝治程の男が本気を出せば、殺したり、重傷を負わせたり、どうとでもできるはずである。それをあえて、すれすれのところで留めるあたりに、気味の悪さを感じた。
「お義父さん、穏便に済ませたいのよ。いつでもやれるぞ。そう私達に思わせて、私があなたから自発的に離れることを期待しているのね」 
 あり得る、と真琴は思えた。真琴が思い浮かべる父親像。自分の世話は全て使用人任せ。仕事ばかりで、構ってもらったのは一度か二度、あるかないか。今回のことも、自ら行う手間はかけたくない。相手が自然と、自分を選ぶように仕向ける方が楽なのである。
「私、そんなに邪魔かな」瑛子に心配かけないよう、気丈に振る舞っていた彼女だが、自身を脅かそうとする凶刃に限界だったのかもしれない。「私がいなくなったり…それこそ、死んだりした方が、良いのかな」
「君が死ぬなら俺も死ぬ」
 即答。本気だった。冬子のいない世界で生きていきたいとは思えなかった。真琴の想いを察して、冬子はぎこちない笑みを浮かべた。
 しかしこのままでは、業を煮やした勝治が、目の前の彼女の笑顔を奪うのも時間の問題である。それだけは避けたかった真琴は、直接父親と対面した。
「一年?」冬子は目を見開き、夫を見た。
「ああ。一年、あっちの家に住んでみて、合わなければ後継は無かったことにするって」
 勝治の要求は、それ以上でも以下でも無かった。真琴を強制的に連れ帰るつもりは無い。開口一番、彼はそう述べたという。
「それで、あなたは?」冬子は不安そうに、真琴に尋ねる。「まさか…」
 真琴は俯き、軽く肯いた。彼女と視線を合わすことができなかった。
「嘘でしょ!嫌。嫌よ。あんなところにいたら、私、殺されちゃう!」
「殺すつもりならいつでもやれる。それに、いつ刺客を送ってくるかわからない、びくびくした毎日を過ごすよりも、親父達の動きがすぐに分かるのだから、もしかすると今よりも安心できるかもしれない」
「そんなわけ、ないじゃない!あの人達と暮らすなんてっ」
「どうしようもないんだよ!俺達の場所は割れていて、ここで断っても、あいつは諦めない。逃げ続けることなんてできない。今の俺達の生活は、安全とは程遠いんだよ」
 真琴は父親に、ここ最近の、冬子の身のまわりの現状について言及した。しかし証拠は無い。案の定、勝治は「なんのことやら」と一笑に付したのみだった。
 ——彼女。そのうち、怪我だけじゃ済まなくなるかもしれないわねえ。
 同席した後妻、雛子の述べた言葉が、真琴の頭の中で粘着して離れない。雛子は、彼女が誰とは言わなかった。言わなくてもわかった。ここで断れば、目の前にいる最愛の妻、ひいては娘にまで被害が及ぶかもしれなかった。
「…すまない、熱くなって。もとはといえば、俺の家族の問題に、君を巻き込んでしまった。君の気持ちを考えていなかった。本当に、すまない」
 泣きじゃくる真琴は、冬子の手を取る。「やっぱり今回の件は、無かったことにするよ。分からないけど、もっと強く突っぱねたら、望みなしとして考えてくれるかもしれない」
 それは真琴の、希望的観測に過ぎなかった。見込はほぼ無い。あの勝治が、容易に諦める訳が無い。
「…一年ね」だが、冬子は肯いた。
 元々、身分の差が天地ほどもあるのである。冬子は真琴の素性を知った時、いつかこんな日が来るだろうとは思っていた。
 それに。冬子は、目の前の真琴をじっと見つめた。——私は、私の人生は、彼に救われた。今更ここで彼と離れることなど、考えられなかった。
 真琴の言うとおり、私達が逃げ続けることはできないのだ。

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