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徹子さんのエッセイ 感想


 「続 窓ぎわのトットちゃん」の「咲くはわが身のつとめなり-『失恋』」という節で、女学生時代の徹子さんが教会の副牧師様に恋をしたというお話がある。

 この恋は、その副牧師様が東京から広島に拠点をお移しになること、信者のお一人とご結婚されることで終わりを告げるのだが、「記念になるものを差し上げたい」と、お思いになっていたところ、あるものに巡り合う。

 あるものとは、原っぱの近くで目にとまった小枝にマシュマロをくっつけたようなもの。その美しさに驚かれた徹子さんは、それを小箱にいれてリボンを結び、お別れの日、戦後の物資不足のなかでも、せいいっぱいの身繕いをされて、そのお餞別をお渡しになった。

 その後、大人になられた徹子さんは、「小川宏ショー」、ゲストが懐かしいお方に再会できるという番組で、その副牧師様と声での再会を果たした。

 そこで、そのお餞別が徹子さんの大の苦手とされるカマキリの卵であったことがわかり、彼が広島でリボンの結び目を解くと、孵化したてのカマキリが箱からうじゃうじゃ出てきたというユーモア溢れる後日談が明かされるのだった。

 「続 窓ぎわのトットちゃん」では、お話はそこで終わっているのだが、同じく徹子さんが執筆された「トットの欠落帖」の「お餞別」の節では、笑いに包まれるスタジオのなか、涙を流される徹子さんのお姿の描写で終わりを迎えている。テレビをご覧になっていた方は誰しも、その涙を幼い頃のご自身を懐かしむものと思ったが、実際は「大人の世界に入ろうと、必死に背のびをしていた自分が、哀れだった」と結ばれていた。

 徹子さんが当時流されていた涙にはきっと、幼い者の懸命さ、その懸命さが自分が思っている見当違いの方向に向かっていたことがわかった時の切なさが含まれていたのだろう。


 これは徹子さんの女学生時代の思い出のなかで、いっとう私の心の琴線に触れるお話であり、そこから思い出されるのは幼い頃の「箸置き」の記憶である。

 私が小学生くらいの頃、我が家の食卓は冷え切っていて、母は家事に忙しくどうしようもなく疲れていた。幼い私は家事を手伝えず、母もまた、子供に新しいことを教えられるほどの心の余裕もなく、私に与えられていた唯一の仕事は、食卓に箸を並べることだけだった。

 ある晩、いつものように箸を並べようと食器入れを探っていると、奥の方に陶器でできた箸置きがいくつか散らばっているのを見つけた。桜の花弁や、茄子、唐辛子、大根でかたどられた鮮やかなそれらは、とても美しく、ちょうど家族分の用意があった。

「こんなに綺麗なものたちが机に並んでいたら、お夕飯も楽しくなるだろう」

 私はいつもよりも丁寧にちまちまと箸置きと箸を並べていたのだが、途中でそれに気付いた母に強く咎められた。

「こんなにちまちましたもの、いちいち洗ってられないわよ。誰が洗うと思ってるの。余計なことしないで」

 そう言うやいなや、母はえらく乱雑に箸置きを回収し、元の場所に流し入れるように納めてしまった。確かに、あれほど小さく繊細なものたちを壊れないように洗い、拭き、しまうという作業の大変さを私は考えていなかった。

その後、箸置きたちは一年とたたずして処分されてしまったのか、姿をめっきりと見なくなった。皆のためにと気を利かせようとした自分があまりにも周りを見れていなかったという恥ずかしさから、なるべく箸置きから目を逸らし思い出さないようにしていたので、はっきりと処分された時期は覚えていない。それほどまでに、当時は辛かった。

 子どもというものは、本人が思っているよりも小さく、そしてその自覚があまりないゆえのいじらしさがあり、それでもひたむきさを消せない悲しい生き物なのかもしれないと思う。
さて、私はいまだに、折に触れてこの話を母にする。

 どれほど私が嫌な思いをしたか、いくら家事が忙しくても、他に言いようがなかったのか、月日がたちいくらかのんきになった母を詰る。そのことについて当時ほどの哀しさは残っていない筈なのに、十数年ごしの恨みを晴らすかのように執拗に話す姿はとびきり図太く、ひたむきだった少女の名残は、もはや微塵もない。

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