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「生活」がただそこにあった

 その人から溢れるふとした仕草や表情、紡ぐ言葉の奥にある温かさ、柔らかい眼差し、漏れる感情と、僕個人の趣味嗜好、性癖、好きが交わった瞬間に、人は愛情やつながりというもの感じるような気がする。言葉では言い表せないような、人が無意識的に発する何か同士が交錯した瞬間。それは双方向じゃなくて、その人がいるだけで何だか心地よくて勝手に身体が反応してしまうような。言葉にしなくても、勝手につながってるなあって感じられるそんな存在。表層だけじゃなくて深くて解けない赤い糸でつながっているような。仮に血のつながっていない家族だったとしても、その人から愛情を受け取ったら、その人の愛情を構成している欠片の1つや2つにでも触れたいって思うかもしれない。

 社会や世の中は、少し残酷な一面もあって、「普通」という呪縛から逃れられずに、それがあるべき姿や当然という言葉で片付けられてしまうことも多い。当事者にしか分かりえない深い愛情や絆がそこに存在したとしても、第三者から見ると懐疑的で、そこに怒りすらも覚えてしまうような風景に映るかもしれない。すごくもどかしくていたたまれない気持ちになる。人と人だから、好き嫌いも合う合わないもある。摂理。現象。どんな過去があって、今に辿り着いたかは分からないけれど、いつか離れ離れになるなら、ずっともっと今を愛せるように、未来で愛された証を思い出せるように、できるだけ多くの愛情を共有したいなあと思う。

 正しい家族のかたちっていうものは存在しなくて、かといって家族の仮面をかぶった全員他人同士の集まりは果たして家族と呼べるのかも曖昧で、多様性の時代だからと言ってなんでも許せるとかと言ったらおそらくそれもちがくて。家族って気づいたらそこにあるような、「当たり前」と「当たり前じゃない」が複雑に重なり合っているシュレーディンガーの猫みたいな状態がずっと続いている奇跡のようなものに近い気がする。なんで自分はここにいるんだろう?って考えだしたら夜も眠れないような哲学的なこと。

 だから私たちは、答えが存在しない場所に答えを見出すために、人とのつながりや愛情を求めるんだと思う。いつもそばにいるあなたに愛情を注いでもらったから(そばにいてくれたから)、僕/私はここに居てもいいんだって思えるような。そんな光のような存在。愛情を与えられて注いでの当たり前じゃない繰り返し。命が巡り巡っていくことの美しさと儚さ。

映画『万引き家族』を観て思ったこと。

間違い探しの間違いを探そうとしないで生きていくのは難しいけれど、自分が歩いてきた道のりだけはせめてギュッと抱きしめて愛情を注いでやりたい。


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