LIFE

いのちにたいするリアリティを見失いがちな今日にあって、多様な生命力を喚起することをテーマとした展覧会。出品作家には西尾康之や棚田康司、川島秀明といった現代美術のアーティストだけでなく、マンガ家やアクティヴィスト、障害をもつ表現者なども含まれ、バラエティに富み多岐に渡っている。多様な生命力を励起させるために、多様な作家が選出されたようだ。

だが、現代美術の作家はともかく、それ以外の表現者たちの作品は、まさに「作品」として見せられているがゆえに、その生命力を半減させてしまっているようだった。たとえば暴走族の集会や暴走行為を撮影した吉永マサユキの写真群。控えめな照明と黒い背景のおかげで、典型的な「社会のアウトサイダーの写真」作品として見せられているが、逆にそのことによって当事者たちの暴走行為というリアルな生命の消尽との距離感を生み出してしまっているように見えた。むしろここで見なければならないのは、彼らの爆走と同じ速度を保ちながら撮影し続ける吉永自身の生命の躍動であって、それは「作品」とは別次元にあるものだ。

吉永と対面させられている今村花子の絵にしても、「作品」としてみれば凡庸な抽象絵画になってしまうし、アイドルの肖像画ともいえる佐々木卓也の絵も、従来の「エイブル・アート」としてみなされがちである。

しかし、こうした現代美術の文脈には乗らない表現者たちが面白いのは、彼らの「作品」が優れているからではなく、その前の段階にある「活動」が魅力的だからではなかったか。たとえ「作品」の向こう側に「活動」を見通すことができたとしても、その経験からさほどの生命感は感じられない。なぜなら、彼らが命を賭けているのは「作品」ではなく「活動」だからだ。

したがって重要なのは、吉永と暴走族の関係性を写真という形式によってではなく、その活動を丸ごととらえることのできる別のかたちで見せることであり、あるいは今村や佐々木の絵を「絵画」として見せるのではなく、絵を描く一連のプロセスを包含しながら見せようとすることである。そうした「作品」に依存することない見せ方は今のところ十分に開発されているとはいえないが、人間の生命をとらえる上で「活動」を無視することはできないのだから、生命を豊かにするはずの美術館がその任にあたることは筋違いとはいえない。

だからといって、アートプロジェクトのプレゼンテーションとして催される展覧会でしばしば見受けられるように、膨大な資料を黙読させるという形式がベストだとは到底言えないし(監視員の前で黙読することは苦痛以外の何物でもない)、トークショーによって作家の生の声を聞かせれば事足りるかといえばそうとも言えない。

今のところ考えられるもっとも有効な方法は、人類学的な手法だ。とくに吉永の場合、民族誌的な方法論によって暴走族という対象をとらえるとすれば、その手段は写真だけではなく映像や音声、文字なども含まれるようになってくるので、それらを総合しながらみずからの生命と他者の生命の相克や調和について表現する手法が考えられる。

今村や佐々木にしても、彼らの表現である「絵」を直接的に展示することより、そのあいだにエスノグラファーとしての第三者を介入させることで今村や佐々木を表象/代理させるほうが、彼らの生命をリアルに表現することができるかもしれない。

こうした見解にたいしては「それは美術ではない」という冷ややかな文句が返ってくることが当然予想されるが、じつはそのとおりである。だが現代の生命の多様性を把握するのに、美術という矮小な一システムに立脚することを自明視するほうが、そもそも不自然で無理がある。現代美術以外の表現者たちを美術館に召喚するのはよい。だが、それだけではあまりにも一方的で虫がよすぎるというものだ。そうするのであれば、美術の側もアートの規範や慣習から一歩踏み出す覚悟を示さなければならない。

初出:「artscape」2006年10月1日号

LIFE

会期:2006年7月22日~2006年10月9日

会場:水戸芸術館現代美術ギャラリー

参加:今村花子、岡崎京子、川島秀明、齋藤裕一、佐々木卓也、舛次崇、棚田康司、西尾康之、ハスラー・アキラ、HEARTBEAT DRAWING、SASAKI、日野之彦、山際正巳、吉永マサユキ

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