ハーバード見聞録(15)
「ハーバード見聞録」のいわれ
本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
ハーバードから見た中国(4月25日)
週末になるとハーバードスクェアで中国共産党による数々の拷問の様子、天安門事件で戦車のキャタピラのようなもので両足を削ぎ落とされた血だらけの女性、文化大革命で大衆の前で自己批判している党幹部(この幹部が誰なのか私には分らなかった)などの写真を並べ、通行人に中国共産党の非道さを訴え続けている数名の中国人らしいグループが目に付く。
メンバーの年齢もまちまちで70歳以上と見られる総白髪の男性(この人が一番熱心で、積極的)もいれば、20歳代の若者もいる。これらのグループは、「The Epoch Times」と言う名の英字新聞をたくさん小脇に抱え、通行人に配っている。
私も1部手に入れて読んでみると「中国共産党についての9項目の批判」とのタイトルで、24ページに亘り綿々と以下の9項目について中国共産党批判を展開している。
1 中国共産党とは如何なるものか
2 中国共産党の始まり
3 中国共産党の独裁について
4 中国共産党が如何に反世界的勢力であるか
5 法輪劫を迫害する為の江沢民と中国共産党の共謀
6 共産党が如何に中国の伝統文化を破壊したか
7 中国共産党の殺戮の歴史
8 中国共産党は如何に悪魔のカルト集団であるか
9 中国共産党の悪党としての本姓
私は、このグループの中で一番若い人物を捕まえて色々と質問して見た。年のころ20歳代で、180センチ以上もある長身の男性だった。「反体制の闘士」という感じよりも「ひたむききで真面目なお兄ちゃん」という感じだった。
「君は、香港出身か、台湾出身か?」
「私は中国本土から来ました」
「共産党の中国からということか?」
「そうです」
「それじゃ、君のお父さん、お母さん、ご家族は向こうにいるのか?」
「……(沈黙)」
「何を訴えたいんだ?」
「この新聞に書いてあるように、中国共産党が如何に酷いかということだ。中国共産党は、中国人民にも嫌われている。共産党員は、以前6000万人もいたが、最近では300万人(筆者注:約5パーセント)も脱党した。中国共産党がいる限り、中国人民は幸福になれない」
「中国は、共産党指導の下、今日素晴らしい経済発展を遂げているではないか?」
「兎も角この新聞を読んでくれ。中国人民の殆どは、何も満足していない。それよりもむしろ不満が募っている。中国共産党がいなければもっと自由で、今以上に繁栄しているはずだ。世界で共産主義国家が殆ど崩壊してしまった中で、中国が依然共産党の下にあるということは悲劇だ。兎に角この新聞を読んでみてくれ」
彼は、私とこれ以上問答している暇は無いという素振りで、熱心に通行人に新聞を配るのだった。通行人の反応はそれ程でもなく、時々アジア人ではない白人や黒人が立ち止まって異様な光景の写真を見ていた。
ソ連崩壊後、特に東欧共産主義国家がドミノのように次々と倒れていく中、中国は天安門事件の危機を乗り越え、今日目覚しい経済発展を遂げ、それに伴って急速に軍事力を強化し、いまやこの地球上で前例を見ないほどの超強大国家アメリカに対抗しうる唯一のライバルとして、急浮上しつつある。
私がアメリカに来て、1ヶ月を過ぎたところだが、ここハーバード界隈で中国に関わることを見聞する機会も少なく無かった。短期間ながら、これまで見聞したことなどを書き連ねて見たい。
ハーバード界隈で見かけるアジア人のうち、最も多いのが韓国人と中国人である。韓国人も多いが中国人も多い。台湾や香港からの旅行者だと思われるグループがいつもハーバード大学の名前に因むハーバード牧師の像をバックに写真を撮っている。
ハーバード大学に留学中の影浦2空佐によれば、2004年~05年において、中国からはハーバード大学ケネディ行政大学院だけでも28名もの留学生が来ているという。因みに日本からは27名、韓国21名、台湾7名だという。ケネディスクールに留学中の影浦空2佐の印象では、中国からの留学生は、日本に比べても英語能力も高いということだ。
影浦2佐の印象は、ハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授(「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者で日中両国を研究する高名な社会学者)が朝日新聞のインタビュー(7月6日付)で「中国指導部は、極めて周到な国際戦略を立て英語能力を含めて人材を育成している」というコメントととも一致している。
ハーバード大学を始めとする海外留学組のエリート達が中国に帰国後、どのように処遇され、どのような人生行路を辿るのか興味深いところだ。
その昔、植民地時代に、中国から海外に留学した孫文、周恩来、鄧小平などが中国革命の先導者ないしは担い手であったことを考えれば、今日の中国からの海外留学組が現在の中国共産党の一党独裁支配体制を打倒することになるのかもしれない。あるいは、カール・マルクスが資本論で書き忘れた最終章(?)「共産体制から民主・資本主義体制への移行(中国共産党体制を形骸的に残しつつも限りなく欧米流の資本主義・民主主義体制に近似させていくこと)」の完成に向けての作業ないしは壮大な社会実験する担い手になるかもしれない。これから半世紀も経てば、徐々に答えが見えてくることだろう。
これらの中国からの留学組が、留学を終えた後祖国に帰りたがらない、という話も聞いた。「欧米の空気」を吸った者は、資本主義・民主主義に染まり「共産党打倒」に傾くことを警戒されていることを百も承知の上で帰国したがらないのか。欧米の大学で学んだ最新の知識を祖国中国では活用できるチャンスが少ないと思うからなのか。
このように考えると、中国共産党エリートとして栄進する為には、海外留学はプラスに作用しない可能性もあるのではないか。
余談だが、民主主義・資本主義という点では米国と極めて似ているはずの日本からの留学生でさえも日本に帰りたがらないという話を聞く。何故か。ある留学生の述懐。
私も、それもそうだなと思った。ハーバード大学という世界に冠たる大学の学位も、実際にはどれだけの実力なのか解らない。それよりも自分が日々指導し、実力をよく分かっている『教え子』の方を選んだ方が間違いない、という考えは分からないでもない。
日本の留学生の例話を出すまでも無く、中国共産党の世界でも似たような事情が考えられる。日々山積する党務を手際よくこなした者の方が、ハーバード大学でアメリカの問題処理手法を学んだ者よりも信頼されるのは当然だろう。
更に余談をもう一つ。韓国で防衛駐在官をしている時、通産省から出向している方から聞いた話。通産省のプロジェクトで、韓国の中小企業の若者を日本に受け入れ、新しい技術を学ばせる企画を立ち上げたところ、企業主達からクレームがついたそうだ。「日本で新しい技術を身につけた若者は、更に良い給料を見付けすぐ転職してしまう」ということらしい。
海外留学という一見良い事尽くめの様なことも、人間心理の綾で、実に複雑な事情が生じ「八方目出度し目出度し」とはいかないようだ。
アメリカに来る中国人は、エリート留学生だけではない。ハーバードスクェア界隈に「竹村」という名前の日本料理店がある。ある時私が、午後3時ごろ予約を取りに地下の店舗を訪れたことがある。髪の黒い東洋人の女性が、靴を脱いで昼寝していた。私の気配で起き出して、予約を入れてくれた。暇そうだったから、少し雑談に応じてもらった。
「韓国人かい?」
「中国人です」
「中国のどこから来たの?」
「香港から。夫がここで働いているものですから、私も夫を頼ってアメリカに来ました。子供を香港に残してきたので送金しなければなりません。」
ざっとこんな内容だった。「竹村」は日本料理店とはいうものの、韓国料理も中国料理も出している。この女性の夫は、中華料理職人として香港から引き抜いてこられたものであろう。
話は変わるが、私は、たまにタクシーに乗ると必ず運転手の身の上話を聞くことにしている。最初ボストン総領事公邸近くにあるゴルフ場に早朝行く時に乗ったタクシー運転手はアメリカの黒人だった。彼は靴も履かず裸足だった。身なりも貧しかった。独特の訛りで、よく聞き取りにくい。聞くところによると、下層クラスの黒人達は意図的に白人と言葉を変えたがるそうだ。
白人が面白がってそれを真似ると、更に変わった言葉を作り出すと聴いた。
二人目はこれも早朝ゴルフに出かけた時乗ったタクシーだが、運転手はハイチ出身の黒人だった。彼の英語は流暢ではないが聞きやすかった。彼は、一応大学の経済学部を途中まで行ったと話した。思いのほか、日本のことを良く知っていた。
「日本は、バブルで経済が不振だそうですね。日本は高齢化社会を迎え、人口減少するそうですね。外国からの移民を増やすべきだという議論もありますね」
また、アメリカ批判には熱がこもり、アクセルを踏み込む割には「上の空」で運転しているようで、心配だった。
「ハイチには1991にクーデターで軍事政権が出来たが、アメリカの横槍で、退陣させられた。2000年の国会議員選挙結果にもアメリカが色々文句を言う。『ハイチの民主化』と二言目には言うが、放っといてもらいたい。アメリカが色々口出しするからおかしくなるんだ。独裁でも何でも、大混乱するよりはましだ。一人当たりのGNPも今では400ドル足らずになってしまった。私もこうやって出稼ぎだ。イラクだってアメリカが出しゃばるべきじゃないんだ。」
タクシーの運転手には最近ではロシア人やメキシコ人も多いそうだ。我が国で「3K」と呼ばれる、低賃金で、労働条件の厳しい部門は、アメリカでは社会的に確固たる基盤を持たない「新渡来人」が担い手になっているようだ。
アメリカに来る中国人も上はハーバード大学に留学して来る者から、下は香港からの出稼ぎに至るまで幅があるのが現実のようだ。ハーバード大学で、中国を研究している学者が現在の中国指導部が直面している問題などについて興味深いお話をしてくれた。
中国の経済成長は引き続き堅調のようだ。共同通信社のニュースによれば「中国税関総署が7月11日発表した今年上半期の貿易収支によると、貿易黒字額は396億5000万ドル(約4兆4300億円)で、昨年1年間の黒字額319億8000万ドルを上回った。米国などからの市場開放圧力が高まるのは必至。国際経済の焦点となっている中国の通貨人民元の改革問題にも影響を与えそうだ」と報じている。
私がアメリカに来て、中国経済の進出を実際に目撃したのは、少々大袈裟に言えば、二つの中国製品の買い物だった。一つ目はハーバード大学の生協(COOP)で買った野球帽。ハーバードのマーク「H」がしっかり入っていた。2004年11月8日米国政府はニット製品、ブラジャー、バスローブの3品目に対しセーフガードを発動したことを見れば、ハーバード大学生協の衣類の殆どは中国製品と見て間違いなかろう。二つ目は「New Balance」というブランドのスニーカーだった。いずれも小さな字だが「Made in China」としっかりプリントされていた。
米国の対中国貿易赤字は、90年の127億ドルから2002年には1031億ドルに大きく膨らみ、2000年には中国が日本に変わって米国の最大貿易赤字国になった。これに対して、米国は、中国製品に対してセーフガード反ダンピング措置を発動するなど米中貿易摩擦がいまや両国の大きな課題として顕在化している。
貿易摩擦といえば、1980年代から90年代にかけて日米貿易摩擦が我が国にとって大きな問題となった。日本の場合は、日米安保条約によりアメリカと同盟関係にあり、アメリカ側からは「日本の安保只乗り論」として批判された。
日本としての解決の処方箋は①貿易の自由化、輸出の自主規制②同盟国アメリカを含む自由世界の安全保障に対する責任分担③ODAの増額などであった。
一方中国だが、中国は経済成長の成果を直結的に軍事力の強化に充て、ソ連崩壊後は軍事戦略上もアメリカのライバルとして急浮上しつつある中での米中経済摩擦という構図である。
今後米中経済関係について常識的にいえることは、①相互依存体制が益々深まる(世界にとっても日米にとっても中国という巨大市場は不可欠)②時間の問題だが、中国は経済の質・量共に限りなくアメリカに近づく(中国による対米輸出品目は従来の労働集約型の伝統製品(繊維、玩具、履物など)から、技術集約型の高付加価値製品(カメラ、ビデオ機器、ラジオ、自転車など)に徐々に変化)③貿易摩擦は永続的に続く、と言うことだろう。
軍事面においては、米国が現在推進しているトランスフォーメイション(米軍の変革)は、対テロと対中国軍事戦略を念頭に置いたものであると思われる。しかし一方では、米太平洋軍司令官ファロン海軍大将が「中国は私には脅威に見えない。米政府が許せば、中国と軍事同盟を結びたい。そうすれば、同時に台湾を守ることにも繋がる」と発言するなど、米国の対中国軍事戦略は未だ確固たるものが出来上がっていないという印象がある。
先日、ハーバード大学ケネディ行政大学院の安全保障担当のオエルストローム元米空軍中将(元空軍士官学校長)を訪ねた折、中国の軍事問題に強い関心を示し、約40分間の訪問の間、私に対し、中国の軍事戦略に関する質問を浴びせかけてきた。
8月21日から9月2日の間、ペンタゴンなどから現役高級将校も参加し、集中セミナーなどが開催されるとの事。勿論私も特別聴講を許されたので、米軍及び米国の安全保障関係者が中国問題をどう考えているのかを聞ける機会として今から楽しみだ。
米中関係が今後どう推移するのか、我が国の平和と繁栄に重大な影響を与えるだけに、極めて興味深いテーマである。
ハーバードという小さな窓から垣間見た米中関係を書き連ねて見た。
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