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初めてのプログラム

僕が初めてプログラムにふれたのは、多分小学1年生の頃で、それは下の兄(4つ上)の友達の家で、機種はNECのPC6001という当時大ヒットしたパソコンだ。その家で兄たちが雑誌のプログラムを入力して、その●や■で構成された単純なゲームを遊んだのを覚えている。その家にはそれで遊ぶため何度も歩いて通った。小学校の裏だった。その後僕のうちにもパソコンが届いた。シャープのMZ721というちょっと格好いいやつで、父が買ってくれたのだ、僕と兄のために、あるいは僕のために。僕は嬉しくて学校を早く帰ったらパソコンに没頭した。クリーンコンピュータという起動時はマシン語モニタしか入ってないやつで、兄に教わった方法でカセットテープからBASICを15分ほど待って起動して、雑誌の簡単そうなプログラムを打ち込む。小学1年生なので雑誌の内容はあまり理解出来なかったがともかく色々打ち込んでは実行して学んでいった。それから意識的に自分で考えて打ち込んだプログラムしたことも覚えている。セミグラフィックスで作ったウサギがぱたぱたアニメーションするやつだ。パソコンは兄も使った。兄は高度なプログラミング技術を駆使して、あの友人の家で見たゲームを再現していた。それから兄に多分求めてもいないのにプログラミング技術を教わった、少しスパルタで。兄は、これはお前の将来にきっと役に立つと言っていた。そんな兄は実際にはあまりパソコンを触らず外で遊んでばかりいた。やはりこのパソコンは僕のものだったのか、分からない。程なくして僕は自在にBASICでプログラミングできるようになり、数年後にグラフィックスも自在に描けて規格がパソコンメーカー共通という「MSX」を買ってもらった。こちらはクリーンではなくいきなりBASICが立ち上がる。すぐに雑誌のプログラムを数時間打ち込み、遊んだが、電源を切る前にカセットにセーブする方法が分からない。MZではSAVEで良かったのにMSXではどうすればいいんだろう?しばらく調べ格闘して分からなかったので、泣きながら電源を落としたのを覚えている。それからセーブの仕方もわかり、グラフィックスを駆使するコツも分かり、5年生の頃にはより高速で動かすためにマシン語でプログラミングするようになっていた。ソフトバンク社の専門書で、人工知能という概念にも触れた。それから先にもう一台を経て、バイトするようになり念願のMacLCというマッキントッシュだが廉価版それでも40万もするパソコンを買った。この時は父に許可を取ろうとしたが、「そういうのはオタクっぽいという。やめとけ」というふうに言われて非常にショックを受け、悔しかったことを覚えている。それでも独断で買ったけど。それから高校では何もやる気が起きなくなり強いて言えば芸術とAIなどのプログラムに没頭していたが卒業してもなおやるべきことが見つからず途方に暮れていた僕は上の兄が働いていたIBMの工場で働くようになった。夜勤もあるが給料がよく、そして配属の偶然だと思うけどそこの研究セクションに行くことになった。そこでは最新のチップの技術を研究していた。その素材を機械を使って大量に作り、うまくいったか顕微鏡で検査し、パソコンに打ち込みプリントアウトするという作業だった。周りは東大などを出た先生ばかりだった。ある晩僕はそのソフトが検査結果を3分かけて打ち込みプリントアウトを15分待ちまた打ち込み、という作業を毎日10回ほど繰り返すのが面倒くさかったので、こっそりプログラムをいじり、「ファイル一覧を表示し、チェックを入れたものを連続でプリントアウトする」という機能を数日の夜の休み時間のうちに完成させて、使って見て問題なかったので、「こういうの作ったんですけど…」と先生方にお披露目した。そしたら使いやすい!すごい!と驚かれた。またある人から「福島くん、プログラマにならないの?」と言われた。プログラマ?そんな職業が、僕にあり得るなんて、考えても見なかった。程なくして僕はIBMを辞め、今度はまた下の兄に紹介されて、実は地元の近くにあるとすら知らなかった大きなゲーム会社に「プログラムも音楽もできるから」ということで面接され、合格し入社することになった。幼い頃兄に予言されたように僕はプログラマとなった。しかもゲームプログラマ。そこには研修室があり、新人は2ヶ月の研修という審査期間があるのだけど僕は2週間でクリアした。そこで部長に言われた。「君は10年に一人の逸材だ」と。しばらくしてそこも辞め独立し、フリーとなった後自分でゲーム会社を設立した。それは10年で売却し新たな会社を立ち上げそれは3年で売却し、それから主にプロデューサー・ディレクターとして転々としているが、許されるならまたプログラマをやってみたいと思っている。

しがないフリーのクリエイーターですが、どうぞよろしくお願いしいたします。