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最近になって苦しむ子どもを職業柄よく見るようになる。なんでだろうと分析していくとそこには当たり前の事に苦しむことがわかった。では何にくるしんでるのか。見解と主張について書いていく


負担増と当時平行

今の子どもたちはもはや社会人と変わらない。いや、心技体考慮するとそれ以上であろう。

まず、週5日にもかかわらず教科が増えてるのだ。特に小5からは英語、プログラミングといった成績対象の教科が加わる。国・数・理・社といった既存の教科も難しい分野が大幅に増加する。背景としてはゆとり教育の脱却と国が人材強化の為に前倒しで行ってるのだ。この状況の中教育現場はなぜかみんな「一緒」にこだわる。これだけの科目がありかつ複雑だと個々の修得は当然変わる。にもかかわらず当時平行を行う。結果、落ちこぼれや出来過ぎるが故に様々な制約が生じる(例えば、知的好奇心で先取りしたくても止められる)といった浮きこぼれが生じる



この解決法はシンプル

習熟度別を導入することだ。これを実施したらあのクラスは「バカ」だ「出来損ない」だとレッテル張りになるという意見は承知の上である。だが、イメージしてほしい。できないが故のレッテル張りや出来過ぎに対する嫉妬は一緒に授業してるからこそ起きるのではないか。一方で平等というのは担保しなければならない。そこで、テストは既存通り共通問題(難易度の高い問題は取り入れない)で授業は習熟度別を行えばいいのである。この習熟度別授業は本人(子ども)の悪影響の緩和だけでなく様々なメリットを生じると私は考える。

様々なメリット

一つ目はが学校外の負担軽減だ。公教育がレベル高い子、好奇心旺盛な子に向けて応用、発展的授業を展開することで塾といった学校外の費用を減らすことができる。対照的となる下位層も補う為に塾に行く必要も減る。月謝は勿論、お弁当代や送迎のガソリン代を減らすことが出来る。浮いたお金は将来の進路の為に貯蓄するといざという時に役立つ(特に私立中学へ行くときと不登校時。これにかかる費用については後程書きます)

二つ目は家族との時間が増える。自己肯定感を上げるには認める、愛情といった安心感が必要。この時間を費やすことができるのはたいへん大きい。友人が親のエゴで家族との愛情時間がなかった故に難関中学には合格したが後に軽犯罪を犯してしまったのをみてるからこそ。もし習熟度別があれば教育虐待は減る。そう感じるのだ。教育虐待の背景には少なからず公教育への不満があるから。

三つ目は雇用の促進。特に就職氷河期に資格として、生きていくために修得した先生の卵が潜在的にいる。これらの雇用を生み出し現役教員の負担を削減し、より細分化された今日の問題に対応できる。だが、これらの理想郷を作るには予算増大が避けて通れない

GDPに対する公的支出の少なさ

日本はご存知の通りGDPに対する公教育への投資が少ない。今の状況は少ない予算でいい人材をつくれよ。という無茶苦茶なことになってるのだ。となると授業は特に知的好奇心、わかった!!といったワクワク感がなく、淡々と進みただ単に受けて特に感じずそれでいいやとなり国が思う人材とは程遠い従順だけな人材がうまれる。これでは国が沈んでしまう。一緒というのは思考停止なのだ。子どもの時からみんなとでいいやなんて考えるのはもうダメだ。そう思うと、浮きこぼれやついていけないおちこぼれの方が自分の意思が働いてる気がする。だって拒否というのは立派な意思表示だから。これが消極的意思(しかたなく)なのであっても。実際このような理由で学校に行ってなくても考えはしっかりしてる子は多い。

もし、習熟度別の授業を公教育実施してれば行きたくてもいけないが減ると思うし、なにより多くの子ども、生徒、先生からかけがえのないものを手に入れることだってできるだろう。



ではでは



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