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松尾スズキ作・演出『フリムンシスターズ』を観て

COCOON PRODUCTION 2020『フリムンシスターズ』を、2020年の10月末と11月初旬の2回見てきた。松尾スズキがBunkamuraシアターコクーンの芸術監督に就任して以来、初の書き下ろし新作、しかもあの『キレイ-神様と待ち合わせした女-』('00・'05・'14・'19年)以来20年ぶりとなる新作ミュージカルだ。

2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により演劇界では劇場の休業や公演の中止が相次ぎ、コクーンもまたその憂き目に遭った。しかも、初日の17日前にメインキャストの1人・阿部サダヲにコロナ陽性が発覚。

結果的に、「不要不急」とされたエンタメ業界の窮状と困難を一身に背負うことになったこの作品で、何よりもまず、松尾スズキが「自由を奪うものへの怒り」「抑圧・呪縛からの解放」をはっきりとテーマに掲げ、「間違った指図にヘラヘラ笑いながら、自由を差し出すのはうんざりだ!」というストレートな台詞を言わせたことに驚きつつ、感慨深い思いを抱いた。

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奪われても怒らない「現代の奴隷」たちへの叱咤

登場するメインキャラクターは、先祖の勘違いで記憶を奪われ、コンビニの店長と寝ながらタダ働きしているユタの子孫・玉城ちひろ(長澤まさみ)、妹を車で跳ねてしまったトラウマで、万引き依存症に陥った女優・砂山みつ子(秋山菜津子)、そして、宝くじで当てた2億円を、愛する男に持ち逃げされたゲイ・ヒデヨシ(阿部サダヲ)の3人。それぞれが抱える「呪縛」の設定は、いかにも松尾作品らしい過剰さに溢れている。

しかし、今回はそこに「幕末に黒船から逃げ出した黒人奴隷」「奄美大島の債務奴隷・ヤンチュ」「米軍基地に対する沖縄人の複雑な感情」「同性愛ヘイトとそれに対する抗議デモ」などのリアルな問題にまでイメージを連鎖させ、虚構の力でそれらすべてを1本の因果に収束させるストーリーテリングはさすが!の一言だ。

尊厳や自由を搾取されても「奴隷」のように無気力に生きてきた玉城ちひろが、目的を見つけたことで怒りの感情を取り戻し、呪縛から解放されるというプロットは、ひたひたと少しずつ自由を奪われていても無自覚な「ぬるい奴隷」に甘んじている私たち日本人に、苦々しくも温かいエンパワメントをくれる。なんせ、「奪われて怒らないのは奴隷です!」という台詞まで出てくるのだから。

そして、普段ほとんど政治的なメッセージを発さない松尾スズキにここまで言わせたのは、自粛警察やマスク警察、不要不急な業界への風当たりの強さなど、まるで奴隷が互いに自分の繋がれた鎖の長さを競いあうような「奪われるもの同士の分断」が、コロナ禍によっていっそう露呈し深刻化したからだと思うと、なんともやりきれない気持ちにもなった。

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「自由の砦」としての劇場と演劇が脅かされた

松尾作品には、『ニンゲン御破算』('18年、'03年初演時は「御破産」)、『女教師は二度抱かれた』('08年)などのように、劇場や劇作家についてメタ的に言及する物語が多い。中でも『女教師は二度抱かれた』は、オカマバーで繰り広げられるショーという劇中劇の形式で、ある女性の悲劇を描き、それを語る狂言回しのMC役を皆川猿時が務めていたことも含め、『フリムンシスターズ』の劇構造に近いものを感じる。

どこか松尾スズキ本人を彷彿とさせる小劇場界の旗手・天久六郎(松本幸四郎・当時は市川染五郎)が、かつて高校時代の恩師・山岸涼子(大竹しのぶ)との間に犯した過ちのツケを払い、悲劇的な状況に陥るこの作品において、「劇場/演劇という虚構の中に逃げ込むことでしか、しんどい現実から解放され救われる道はないのだ」と言わんばかりのラストシーンはとても印象に残っている。

一宮 そんな悲しい顔をしないで、狭いところでもがき苦しんでるのはあなただけじゃないんだから。彼女が病気? それはかわいそう。でもね、あなたたちには少なくとも台本があるんだから。そのとおりにやれば問題はないわ。さ、みんな台本どおりに歌って!(『女教師は二度抱かれた』より)

だが、そんないわば「後ろ向きの希望」を描いた『女教師は二度抱かれた』に対して、今作『フリムンシスターズ』における劇場は、「天国の劇場」として生死からすら解放された自由の砦として描かれ、ラストシーンのニュアンスは「前向きな祈り」とも言うべきポジティブなものに変化していたように思う。

どんなに不自由で抑圧された状況でも、私たちは物語の中では自由だし、劇場の中では解放される。

思えば、松尾スズキはこのことを繰り返し繰り返し描いてきた作家である。

だが今回、演劇の公演自粛や、さらには出演者の陽性発覚など、コロナによってその自由の砦までもが脅かされた。そんな状況を乗り越えて幕を開けた本作が、「劇場が好きよ」という台詞で始まり、「次も開くかな 幕が開くかな」「信じるしかないね また明日」という歌詞で終わることに、万感胸に迫る思いであった(さらにその後の大阪公演では、公演関係者に体調不良が出たため2公演が中止になるという事態を迎えたことで、この歌詞は皮肉にも現実とリンクし、切実な祈りとして残りの公演の観客の胸を打っただろう)。

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「飼い慣らされたヤギ」の安穏を生きる私たち

ちなみに、本作に登場する黒人奴隷ボブ(山口航太)とトム(片岡正二郎)は、『ニンゲン御破算』にも出てくるキャラクターで、'18年の再演時とは演じている俳優も同じである。黒船から自力で逃げ出した彼らと比べ、大義や忠義などの与えられた規範に縛られて殉じようとする武士を「奴隷以上の奴隷」と喝破する台詞があり、実は主題が一貫していたのだと気づかされる。

灰次 ボブもトムも奴隷から自力で逃げ出した。侍はどうだ? 大義だ忠義だと誰かから借りて来た言葉で自分を飾りたて、死ぬことに酔ってる奴隷以上の奴隷ばかりじゃねえか。(『ニンゲン御破算』より)

もっと言えば、『ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン』('16年)もまた「飼い慣らされたヤギ」=奴隷の物語だった。しかも「夢を見ないってね、すごく楽なのよ」という台詞が象徴するように、「自分が奴隷であることに気づかないフリをして生きたほうが楽である」という人間の皮肉な性分にも踏み込んでいた。

こうした辛辣さは、時代の気分もあって『フリムンシスターズ 』では抑えられていたが、それでも自由を無邪気に全肯定するのではなく、「問題はちょっと残しとくくらいがちょうどいい」「自由は自由で、途方に暮れる」と留保する態度こそ、松尾スズキの真骨頂だと個人的には思う。

ちひろはなぜコンビニの店長(オクイシュージ)との子供をみごもるのか。それは、スッキリとした大団円にさせないためだ。私たちは「スッキリしたら忘れちゃう」から。先祖の呪縛を断ち切って自由を求めたくせに、うっかり後世に血を繋いで新たな呪縛を生み出してしまう、それが人間だからだ。あえて苦みを残した、松尾スズキらしいラストだと思う。

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「差別的表現」と「差別を助長・容認する表現」を区別する読解力は観客にも求められる

ネット上で本作の感想を検索すると、しばしば差別や偏見をネタにした表現についての否定的・批判的なコメントが見られる。だが、当然のことながら「差別的表現がある」ことと「差別を助長・容認する表現になっている」こととはまったく異なる。今回の『フリムンシスターズ』に出てきた差別的表現も、「今のコンプラ的にこんなことを言うなんて」といった十把一絡げの拒否反応ではなく、解像度を上げて個別に精査する必要があるだろう。

本作には「ホモ」や「オカマ」など、現在では差別語・蔑称として使うのを避けるべきとされる呼称が頻出する。だが、これらは劇中で、ゲイ当事者による自覚的な自称として、あるいは差別主義者であることが明言されている人物による悪意をもった蔑称として使われている。正直、ある時期までの松尾作品では「ホモ」が無邪気に面白ワードとして連呼されていたこともあるが、少なくとも本作では、あくまで「そういう思想や背景を持っている人」という意図をもって、明確に使い分けがなされていた。そのことに問題はないはずだ。

また、同性愛者へのヘイトを公言する明智(オクイシュージ・店長と2役)というキャラクターも登場するが、彼の差別的な言動は劇中で決して容認されることなく、因果応報として自分(の遺志を託した兄)の身に返ってくるという結末を迎える。これも問題はないだろう。

差別や偏見をネタに笑いをとる場面については、観客によっては拒否反応があるだろう。だが、例えば自分の娘がレズビアンかもしれないと知ってみつ子が露骨に嫌がる、といった場面では、その後にすぐさまヒデヨシが「ゲイの友達の前で、よくそんなにのびのびと嫌がれるわね」とツッコミを入れることで笑いが起きる流れになっている。つまり、「差別をして笑う」のではなく、「差別する者の間違いや矛盾を笑う」構造になっており、ブラックユーモアではあるかもしれないが、それは「笑いの好み」の範疇ではないだろうか。

賛否が分かれるとしたら、みつ子の妹・八千代(笠松はる)が、ミュージカル俳優の夢を諦めた仲間たちとして呼び込む、障害者たちの表象かもしれない。彼らは点滴スタンドを引きずるオペラ座の怪人や、白杖をついて歩くアニー、首にコルセットをしたピーターパン、包帯だらけのキャッツなどに扮して登場し、客席の笑いを誘う。これを、「ステレオタイプな描写で障害者を笑いものにしている」と見る向きもあるだろう。

たしかに、松尾スズキはその創作の初期から、性や宗教、障害者、同性愛、被差別部落、天皇制など、それまでタブーとされてきた題材をあえて笑いの俎上に乗せることで、「ブラックで毒のある作風」と称されてきた作家だ。もちろん、当時の作品には、現在の倫理観からすれば不適切でアウトな表現も数多くある。

だがその根底には、人間が作り上げたあらゆる規範を笑いによって剥ぎ取ったとき、私たちはどこまでも自由で公平である、という松尾スズキ独特の公正観が流れている(その自由が果たして本当に幸福なのかも問いかけながら)。そして、何を笑ってよくて何を笑ってはいけないかを決めるのもまた、私たちの差別意識からくる驕りではないか、と観客に突きつけてくるのだ。

その公正観や平等意識、優しさは独特すぎるが故に、現代のポリコレからはみ出すこともしばしばある。だが、ポリコレとはあくまで私たちが無自覚に差別してしまう事故を起こさないためのガイドラインであって、舞台などの創作表現においては、あえてポリコレをはみ出す意味や意図を咀嚼し、斟酌する解像度の高さが観客にも求められるのではないかと、私なんかはどうしても思ってしまう(たぶん私自身が、創作表現にはそれを受け取る側に読解力を求めるなんらかの特権があると思っているからだろう)。

現在は、不謹慎なブラックジョークが、考えなしの一般人の手によって誰もが目にする場で無責任に垂れ流されてしまう時代だ。そこにたとえ皮肉や批判、大局的な意図が込められていても、そのコンテクストを読み取れない人にとっては「単なるガチの差別扇動」として機能してしまいかねない。松尾スズキの作風は、この先ますますやりにくくなっていくだろうなと思う。しかし今回、黒人役の日本人俳優にいわゆるデフォルメされたブラックフェイスが施されていなかったり(そこにないものを観客の想像力に委ねて出現させられるのが演劇表現の醍醐味なので、一人が何役も演じるようなタイプの演劇で、わざわざ黒塗りをしないのはひとつの結論として正しいと思う)、同性愛者や病気について言及する台詞の事実誤認が、公演期間中に修正されていたりと、松尾氏自身のアップデートも感じることができた。

創作表現における悪意や差別の表象の仕方については、決して表層的にならない見直しや更新を、私自身もこれから考えていきたいと思う。

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