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写真と市場と価値とプロ

 カメラ製品の発展により誰しも写真が「綺麗に」撮れるようになった事により、写真そのものの価値は相対的にも絶対的にも低下していると言える。

 技術というものは手段でしかなく、手段を用いて生み出される「表現」が本来の写真の価値であるとするならば、製品の発展により手段としての技術の向上の手間が省ける分、表現に重きを置いた作品性の高い写真が増えてしかるべきである。
 しかしながら、作品となりうるだけの深い思慮を発揮するほどに写真というものに親しむ人々は、カメラ製品の技術向上などに対し、さほどの価値を感じてなどいないということが言える。
 製品技術を享受する者の多くは私的な記録程度の写真が「綺麗に」映る事を喜びとしているに過ぎないのである。もちろん、製品技術向上が結果として写真撮影の間口を広げ、新たな才能の発掘と担うという側面もあるが、さほど多くはないだろう。

 しかしながら、市場の製品がもたらした価値基準であるところの「明るく」「はっきりと」「高精細に」写り、「大きなボケ」を有するハイキーな写真こそが至上であるという価値基準が、製品技術と共に大衆にもたらされた。そして、誰しも扱える技術となったそれらの要素を持つ写真に対する価値が逆転し、ローキーな写真を求める風潮が、夜景撮影や暗所のノイズ低下の技術と共に広まっている様相である。
 手軽に手にできる製品技術によりもたらされた価値基準に依存し自己の評価軸を持たない大衆が自ら写真を撮り、評価する事が当たり前となった。
 この大衆の意識とそれに合わせるプロカメラマンの生み出す市場は、トレンドのいたちごっこであるといえる。ビジネスとして、「プロ」として写真を撮影する以上、ある程度クライアントの求めるところの価値基準に合わせたものを提供しなければならないとするならば、「トレンドのいたちごっこの」の中に自らの身を置く事となる訳である。
 
 ところで、芸術とはそれらの様な市場の求める価値基準に則さずに、普遍的な己の価値基準に対し向き合う行為であるとするならば、その意味での芸術と向き合うことと、「プロカメラマン」として大衆の価値と向き合う事とは本質的に異なる訳である。これはもはや当たり前の今更のことであるが、その「仕事」と「芸術性」との乖離を問題視する事自体がナンセンスな問題なのであろうか。
 
 行き過ぎた資本主義が生み出す拝金思想である所の価値においていうならば、より多くの利益を生み出す、トレンドに敏感で、さらに言えばトレンドを生み出すレベルの有名写真家こそが至上であり絶対的な価値という見方になってしまう所であるが、もちろん大衆に迎合しより多くの評価を得ることと、芸術性の追求に相関関係は全くもってない。

 ここでハッキリさせておかなければならない事は、絶対的に高い芸術性を持つ作品がしっかりと大衆の評価を受けているのかという問題である。
 まず、大衆とは「絶対的な自己の評価軸を作るために日々己の感性と感覚を磨いている存在」ではない。そして、かつての芸術の多くは大衆の目に届くまでに様々な審査や「評論家」による選別を受けたものであった。「評論家」とされる人たちが「絶対的な評価軸を作るために日々己の感性と感覚を磨いている存在」であるとし、己の個人的で些細な嗜好やビジネスとしての側面をまったくもって度外視したうえで、可能な限り絶対的な評価を下した作品であるとするならば、大衆に向けて発表されるそれは高い芸術性としての価値を持つ作品であったと言えるであろう。その意味においては、大衆に評価される作品に前提としてしっかりと高い芸術的価値が求められていた「可能性」はあった。しかし敢えて言うならば、「評論家」による批評など個人的な趣向によるものであり、大衆に発表される作品など誰かの都合とお金の流れによって生み出されたトレンドの一部でしかないと言えるだろう。
 現代社会においては、SNSなどの大衆文化を享受する時間に追われ、高度な文化としての芸術を鑑賞しようなどという習慣は若者を中心に減少傾向にあるなかで、芸術に対する感度が低下している事は言うまでもなく、その上で大衆が選ぶものなど、到底作品などと呼ばれる様な代物ではなくせいぜい「ばえる」程度のものである。
 それは残念ながら営業写真のプロが撮影した写真であろうとも例外ではない。

 ここで、何事においても重要視されるべき問題として、誰しもが「絶対的な評価軸を作るために日々己の感性と感覚を磨く」ことが、市場の閉塞感を打開する為に必要ではないだろうか。
 芸術などという大そうなものでなかろうと、日々消費するもの、食事や嗜好品など、購入するありとあらゆる物やサービスにおいて、「お金を払う=投資」であるという感覚を持って取捨選択するべきである。自己の選択が、少なからず市場に影響を与えているのだ。
 その感覚を持って日々を生きることそのものが「自己投資」となりさらに己の感覚を磨いてゆく事に加え、その中で、「市場の求める質」と「作り手が本来求めるべき質」の誤差が少しでも縮まる事があるとするならば、より質の高いものが市場に溢れる「正の循環」ともなりうる。個人における日々の消費活動が生み出す需要こそが、自身の選択肢を決定しているという事に対する自覚があまりに欠如している様に感じる。
 自己の決定の裏付けが他者の都合による慣例的な理由であるよりも、自ずから作り上げた価値基準によるものであったほうが、選択から受け取る価値も学びも多いはずである。

 安直にトレンドに左右され「安かろう悪かろう」の商品に手を出した結果、些細な差異により選択肢だけが増やされ全体的に質の下がった市場が生み出す、質の低い文明を享受する我々は、モノの多さだけが生み出す形だけの豊かさを脱却する事無しには、真の幸福を味わうことなどないであろう。

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