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科学という新興宗教が生み出す高慢さと高次元の認識


 学問とは物事を体系化し分類し、場合を分ける事で整理してゆこうという試みである。世に起こるありのままをそのまま受け止め理解することは人間にはとても難しい為に、文化の発展の過程においては必要な物である。しかしながら、学問的に定められた現象の区切りそのものは、人工的なものでしかないのである以上は、学問に教えられる認知の先には真理は存在し得ないのである。
 科学的な観測とすると分かりやすく、計器やそれを生み出す人間の感性が発達する事で常に新しい存在が認知されてゆく過程を見れば、科学が未だこの世の現象を説明するに充分な理解を示してくれていない事は、多くの人が知るところにあると思う。
 それでも、現在の教育によって生み出される「科学信仰」は学問的な見地を必須のものとし、科学的エビデンス無しには正当な結論が見出せないものという思考停止と偏見を植え付ける結果となっている。

 「科学信仰」によって生み出される、自己の認知を超えた理によって物事が進む事を認めない、もしくは認識できないと諦め追求することを止め思考停止させるという風潮が、人間社会において与える影響についてきちんと考えるべきである。
 分かりやすく言うのであれば、相手は常に自らと同じ認知力の上で生きているという高慢さを生み出し、その上で意見は所詮個人のものであり他人の話を聞き入れる必要などないという思い上がりを形成するという問題である。常に例外は存在するが、学問に対しての苦手意識を持つ者でも等しく教育される「科学信仰」をあえて否定しようとはしない。

 ここで、皆が等しく認知できる物事だけでは世の中の動きは説明できないと言う問題がある。学問とは、広く等しく認知する為の道具である事と捉えれば、学問の外を認知する人間が学問的に否定されたところで、その認知自体が否定されるものであるとは限らないということである。
 現在では第六感まで解明されつつあるが、通常の五感の範囲の中でさえ個人により認知力の差があることを、常に自らの五感を頼り生きる我々は忘れがちである。ましてや五感の延長線上にある感覚など、想像の範囲外の出来事である。
 しかしながら、物理視覚の範囲外を認知する人間も、常人では聞き取れない音声を聴く者も、味覚の向こう側に製造過程や成分まで見抜く人々も存在しているのが真実である。それらの感覚は圧倒的多数の科学的知見により様々な否定や論理のすり替えに遭っている。昨今では霊能力等に関してある程度の地位を与える風潮もあるが、多数が実感を伴うほどに認めるには至っていない。
 あえて学問的にこの認知の問題を体系づけるのであれば、認識力には次元が存在するということ。低次元な認識の上には、高次元的認知を想像することさえ難しいという事実がある。しかしながら、このことを生まれながらによる才能の差と片付けてしまう事は、人類文化の発展においての多大なる損失であるのだ。

 そして何よりも、例え高次元的認識を理解することが出来なくとも、それらの認知の存在を認めることは決して自らの相対価値を下げるということではないということ。認識の深度が深まろうとも、そこから導き出される答えも深度のある決定とは限らないのである。広く人間の生み出す文化の質は、材料によって決定されるものには限らない。しかし、新たな材料により生み出される文化を創造してゆくことが、昨今の行き詰まりを打開する鍵となる事は言うまでもない。

皮肉にも、自己の認識の中でも常に理解のできる熱意や努力をもって人を評価するなどという次元の低い認識力さえ助長する「科学という新興宗教」から逃れ、常に自己の認識だけに依らずに物事を多面的に、「高次元的に」認識できる人々が、次世代の文化を形作るのではないだろうか。そしてそれらの認識に対し足を引っ張る、ビジネス的詐欺の横行しがちなスピリチュアル業界などというものも正しく見直さなければならない。

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