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「話せば分かる」は本当か?(その限界と可能性)

芸能人のカップルが別れたり、バンドが解散した時によく聞かれる常套句「価値観の違いで別れました」。こうしたところから分かるように、人間は価値観の違いで決別を起こす生き物だ。

お酒が好き・嫌い、おっとり・せっかち、独創性重視・協調性重視…二極化された価値観の狭間で、人間はお互いに社会を共有して生きていかなければならない。

そもそもだが、「自己」という確立されたものと、「他者」という出身も容姿も考え方も、経験まるまる異なる者同士のコミュニケーションなんて、本来は成立しないものなのだと思った方がいい。

コミュニケーションの成立とは、実はかなり高度な技術なのだ。ここで突然だが、カラオケを想像してもらいたい。たまに、メチャクチャ音痴なのに最初から最後まで自信満々で歌っている人はいないだろうか。

それが、自身の「音程」が正しいと思い込んでいるからだ。それを、他者に指摘されたり、ビデオで撮ってもらって認識されないと、そのズレを直すことはできない。社会的に「正しい」と定義されている音階はあるものの、感覚は人それぞれのため、このようなズレは起こってしまうものなのだ。

こうした感覚のズレは、果たしてコミュニケーションで解決できるのだろうか。「話せば分かる」とは言うが、話すことによって、どこまでお互いのことを理解しあえるのだろうか。どのように話していけばよいのだろうか。

「価値観の違い」という大前提があって、それぞれの個性を認識した瞬間から人間関係は始まる。そして、相手の理解が進むにつれて、自身の価値観は広がっていく。ここでは「そういう考え方もあるのか」と、柔軟性をもって他者に寄り添う姿勢が肝要になる。

同じ価値観を持つ者同士で集まったとき、価値観の広がりは生まれない。同じ価値観を共有することで、強い結束が生まれるが、そこに多様性はない。他者との理解を進める上で「同じ」を探すのは比較的簡単で、理解も進行しやすい。

サークルやコミュニティ、企業や家族、そうした共通認識で括られたグループに属しているとき、共通項だけでグループのメンバーと繋がろうとすると、多様性の面でいつか限界が生まれてしまう。

SNSにも同じことが言える。例えば、同じ「note」というSNSに投稿しているという共通認識を持ちつつも、それぞれの投稿やアカウントごとの違いを尊重し柔軟に受け止めることが豊かな関係性を作る上で大事になってくる。

このように、「共通」している部分で近づき、親和性を高めながら、お互いが持つ「違い」を尊重する。協調性と独創性の狭間において、自己表現の技術と謙虚さを兼ね備えることが、「話して分かる」ための地盤として必要になってくる。

「話せば分かる」において重要なのは、自己を理解し、同時に相手を理解するということ。この理解を進める手法は数多くあるので、別窓で検索してほしい。例えば、心理学用語でいうジョハリの窓などがある。

そして、ここからが本題となる。「話して分かる」に必要な姿勢、重要なポイントは紹介してきたが、この「話して分かる」は万能なのか?限界はどこか?について書いていこうと思う。

まず、人間とは多面的な生き物だ。家族といるときに自分と、恋人といるときの自分。確実に違いがあるはずだ。人間は場面・人物・心情によって性格が移り変わっていく、カメレオンのような精神性を持っている。

ここから言えることは、コミュニケーションを通して、相手のことを理解していたと思っていても、その相手の「一面」を理解したに過ぎないということだ。相手のことを理解したと「思い込む」ことは出来ても、全ての面を理解することは出来ない。

何故なら、相手の全ての関係性に自分が関与していたとしても、「一人でいる時」の相手には干渉できないからだ。一人でいる時、相手が何を心の内で思い、感じているのか。そこを完全に把握できるのは相手本人しか存在しない。

ここで、相互理解において言われる「相手を理解する」とは、どこまでを言うのかという疑問が生まれる。何を知ることが、何を理解することが、相手を「分かる」ことになるのか

「以心伝心」という言葉がある。エスパーのような話だが、思っていること(=独自の情報)がそのまま相手に伝わるという状態だ。この以心伝心において、相手のことを全て受け入れられれば「理解」と言えるのだろうか。

しかし、独自の情報が多くなるにつれて理解できない部分も生まれてくる。明文化、自覚されていない情報も伝達されるならば尚更で、そこから生じる価値観のズレが進むことによって、当初に述べた「お別れ」というものが来るのかもしれない。

時間が経つにつれ、お互いの価値観が共有され、合わない場合は「お別れ」が起きる。そういう意味では、長く付き合っている関係性は「相性が良い」ということが出来るのだと思う。絶対的な存在である時間による関係性の測り方だ。

ただ、時間というもので相手との相性を判断することは出来るものの、時間を通して全ての人と仲良くなる保証はない。時間は判定の尺度であり、そこに伴っている重要な要素が「話す」という情報の交流フェーズになる。

ここで「話す」の話に戻るが、「話す」ことによって相手の情報が手に入り、また自分の情報を相手に伝えることが出来る。タイトルが「話す」なので、今回は「話す」という行為として捉えているが、正確には、ここでいう「話す」はメディアとしての「話す」になる。

SNSによるメッセージ・写真・動画、アート・スポーツ・パフォーマンス、そうした多岐の行為によって自己の発信を行うメディアとしての自分がある。その表徴としての「話す」として、まとめをしていきたい。

「話す」ことによって、自己と他者の間で交わされる情報量は増える。その中で、気が合うなと思ったり、相手のことを受け入れたり、合わないなと感じたりして、相手との相性を「分かる」ことができる。

「話せば分かる」とは、「話せば仲良くなれる」という意味ではない。「話せば分かる」とは、話す(情報を交換し合う)ことによって、相手との相性が分かる、ということなのだ。「分かる」は「別れる」を生むという側面があることは頭の片隅に留めておきたい。

お互いに「話せば理解できる」という保証もない。片方だけが理解していても成立しないし、理解していると「思い込んでいる」も、確かな理解とは言えない。お互い理解しあえず早い段階で決裂するケースもある。

「話せば分かる」の限界は、ここにある。「話せば話すほど仲良くなれる」と勘違いしないようにするべきだ。相手にとっては非常に迷惑に感じているかもしれないし、むしろ関係性を悪化させかねない。

場合によっては「話さない」という選択肢は自分にとっても賢い選択と言える。世界には一生かかっても会えないような数の人達がいる。より有意義な時間を過ごしたいのだとしたら、「相性が悪い」と感じた場合に、その関係性に留まらない姿勢が必要だ。環境を変えるという解決法である。

そしてもう一つ、相手との対話の中で、自分の過ち・欠点に気が付き、自分自身を変えるという方法がある。そうして自分が変わったことで、相手との関係が良好になることもある。改善、アップグレードという形で変わることが好ましい。服従や脅迫という形の変化は健全ではない。

関係を良好にするためには、他者か自分を変えるしかない。しかし、他者を説得して変えることは難しい。相性が悪いと思ったら、相手から離れることにより環境を変えるか、自己を環境に合わせて変えるか、の2つだと、ここでは整理しておきたい。

時間の判定によって得られる良好で長い関係性を楽しむことが、人間関係の「幸せ」だと感じたりもする。「話せば分かる」は、その幸せを洗練していくための、環境と自己の新陳代謝の手段としての可能性がある

関係性の積み重ねの中で、自分に合った関係性を見つけ、それを大切にしていく。多くの人と触れ合う中で、自己の輪郭をハッキリさせながら、自分にとっても相手にとっても、より良い関係性を構築していくことが「話せば分かる」の最終目標なのではないだろうか。


いつも最後までお読みいただきありがとうございます。この記事は投げ銭制です。皆さんから頂いたモチベーションを元に、今後のコラムを更新していこうと思います。おまけとして、有料部分にコラムにちなんだアリストテレスの座右の銘を刻んでおきます。良かったらご活用ください。何卒よろしくお願いします。


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