見出し画像

グーセフ、または水葬願望について

アントン・チェーホフの作品で『グーセフ』という短編小説があります。
グーセフは極東での五年の兵隊づとめを終え、故郷に帰る船に乗っています。彼は重い病気にかかっていて、ふるさとの村を思いながら、何日も高熱と悪夢に苦しんだすえに死んでしまいます。遺体はしきたりどおり帆布に包まれ、海に投げこまれることになります。

全体としては悲惨な話なのですが、遺体が海に沈んでいくときの描写があまりにも美しいので、救われない感じはしません。心ならずも兵として駆りだされ、故郷の土を踏むことなくこの世を去った人に対するせめてもの手向けとして、作者はこの美しい描写を捧げたのかもしれません。
この話を読んで以来、私は水葬にほのかな憧れを抱くようになっています。もともと墓などに執着がないので、いつか船の上で死んで、海に投げこまれ、魚の餌にしてもらう、というのも悪くないのではと思うのです。

現実には、現代の日本で水葬にしてもらうのはきわめてハードルが高いです。普通にやれば当然死体遺棄ですし、みんなが水葬にしたら海洋汚染も心配です。偶然船上で死んだとしても、たぶん冷凍されて陸地まで戻されるでしょう。「豪華客船で晩年→船上でぽっくり死ぬ→水葬」という私の終活プランは、どうやら実現する可能性は低そうです。

グーセフ / アントン・チェーホフ ; 松下裕訳
(筑摩書房, 1987.11, 『チェーホフ全集』第4巻所収)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?