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「親ガチャ」からの発想で、今の自分のどこまでが自分のせいでどこまでが環境のせいなのか、分析してみました

「親ガチャ」という言い方には賛否両論ありますが、個人的には発想として悪くないと思っています。
むしろほぼ親の七光なのに「自分の実力だ」と思うことや、家庭環境や社会システムの犠牲者なのに「自己責任だ」と思わされることのほうが問題です。
試みに自分の現状について「どこまでが自己責任でどこまでが親を含む環境の影響なのか」を分析してみます(五段階評価です)。

親ガチャ(知育面)★★

私の両親は2人とも大学を出ていません。
父は親(つまり私の祖父母)が教育熱心だったので無理に大学に入れられましたが、勉強が嫌い過ぎて単位が取れず中退した人で、母は「活字は三行読むと眠くなる」と公言していたくらいですから、家庭内にはなんとなく知性に対する反感のようなものがありました。
実家に蔵書などもほとんどなく、他のきょうだいがマンガ以外のものを読む姿も見た覚えがないです。
どうして私だけ本の虫だったのか謎ですが、家族からは「本ばっかり読んで変なやつだ」という目で見られていたようです。
私に賢くなることを期待する人はなく、進学なども「行きたきゃいけば」くらいの感じでした。無関心というよりどうしていいかわからなかったのでしょう。
そんななかで、まがりなりにも大学を卒業したり、炎天下講習に通って司書の資格を取ったりしたことについては「がんばったな私」と思わなくもないです。

親ガチャ(経済面)★★★

実家は典型的な高度成長期型サラリーマン家庭でした。
とくに裕福だったわけではないですが、生活に困っていた印象もありません。父は専門的なスキルがあったわけでもなく、またあまりバリバリ働いていたわけでもなく、残業なども年に数えるほどしかしていませんでした。
それで子どもを大学に行かせるくらいの余裕はあったので、当時としては普通としか言いようのない生活水準でしたが、現在の日本の厳しい経済状況と比べれば恵まれていたのかもしれません。

親ガチャ(食育面)★★★★

母は料理が上手で、また熱心でもありました。グラタンをホワイトソースから手作りしたり、おせち料理も大晦日の朝から全部作っていたり、パンやケーキも焼いていたのを思い出します。
父もおいしいものが好きで、子どもたちを連れて外食する時も、ちゃんとした蕎麦屋とか寿司屋に行く習慣でした。ホテルのレストランでコース料理を食べていた記憶もあります。
大学に入ってから「子どものころ、ファミレスとかファーストフードとか回転寿司に行ったことがない」と言って同級生に「お嬢様かよ!」とびっくりされたことがあります。
現在の私の境遇では、子どものころ食べていたようなものはとても食べられないので、分不相応な贅沢に舌が慣れているのはどうかという部分もあるのですが、子ども時代を振り返ると「いつもいいものを食べていたな」と思いますし、食に関してはこの世に思い残すことはないとも言えるので、良かったのかもしれません。
また今でも食べ物の味はわかるほうですし、料理の腕を人からほめてもらえることも多く、まあまあ健康で生活習慣病などもないので、やはり恵まれていると思います。

地域ガチャ★★★★

私が育ったのは公共図書館政策に力を入れている地域で、徒歩圏内に充実した図書館がいくつもありました。
家に本がなくても、親が本を選ばなくても、いくらでも本が読める環境は大きかったです。
そもそも図書館がなかったら、大学に行きたいという動機を持つこともなく、まして今図書館で働いていることもないと思うので、日本の公共図書館と児童サービスの発展に尽くしてくれた先人に感謝しています。

しかしあらためて振り返ってみると、自分の努力だけで達成したものってあんまりないですね…。

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