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本当に「伝え方が9割」か?-モネの絵から考えたこと-

シカゴに旅行で訪れた時のこと (旅行記はこちらこちら)。お目当ての一つはシカゴ美術館。ここは膨大なセレクション、特に印象派やアメリカンアートが充実しており、旅行者にとっては訪問必須のスポットとなっている。現に全米中、そして世界中から観光客が押し寄せてごった返している。

このシカゴ美術館のハイライトになっているのは2階の印象派をメインに取り扱ったフロアだ。ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フェルディナンド・ホドラーなどの絵がゴロゴロと飾ってある。目玉はクロード・モネの睡蓮、フィンセント・ファン・ゴッホの自画像、そしてジョルジュ・スーラのあの有名な絵だ。スーラの絵といえば、セーヌ側のほとりでくつろぐ人たちを超細かい点描で描いた作品と言えば思い浮かぶ人もいるかもしれない。

とっても有名なスーラの絵

訪れた客の大半はこの2階の中心部で足を止めて写真をパシャパシャ撮ったりガヤガヤと感想を述べあったりしている。みんなニコニコと満足げな笑みを浮かべたり、不思議そうな顔を浮かべてまじまじと絵を覗き込んだりしている。訪れた人がそれぞれのかたちで楽しんでいるようだった。

モネの絵のこと

その印象派のフロアを通り抜けるとそこには宗教画のコレクションが並べられていた。キリスト教の影響が色濃く伺える絵画はおそらく中世ヨーロッパで描かれたものだろう。印象派のフロアと同じくらいの広々としたスペースがそれらの絵を飾るために与えられている。

にも関わらずその宗教画のフロアにはほとんど人がいなかった。例えて言うならば、先ほどの印象派のフロアは授業前にガヤガヤと騒ぐ高校生たちの教室だ。それに対してこの宗教画のフロアは放課後の誰もいない教室で仲のいい友達2-3人で秘密をヒソヒソと話しあっている、というような印象だ。ここまで人気の差ってあるのだなと興味深く思ったものだ。

そのがらんとした宗教画のフロアをすたすたと歩いていると、一枚だけ目を捉えて離さないものがあった。他の絵が「綺麗だなー」という感想だけ胸に秘めてさーっと流してしまうところ、その絵が目に飛び込んできた時には思わず足を止めてしまった。そしてしばらくの間突っ立ってその絵をじーっと眺めた。

モネの絵だった。

静謐な海岸と淡い雲。手前には黒と青の小さな舟が砂浜に打ち上げられており、水面には数隻の小舟がヨットのように帆を風になびかせている。砂浜では3人の船乗りが何やら話し込んでいる。そのうちの一人はパイプを燻らせている。波ひとつない海はターコイズブルーで、砂浜の薄いグレーと鮮やかな色のコントラストをなしている。

美しいモネの絵

うーむ、美しい。しばらくぼーっとしてしまった。その間自分が今どこにいてなにをしているのかも分からなくなったかのようだった。

はっとしてあることを思い至った。「はて、なんでここにモネの絵があるのだろう?」

その答えは今でも分からない。ひょっとすると美術館の人が間違って置いてしまったのかもしれない。もしくは何らかの意図のもとであえて宗教画のフロアに飾ったのかもしれない。いずれにせよそのモネの絵は一枚だけ宗教画のセレクションの中でぽつんと、されど確かな存在感を放って配置されていた。

ぼくが次のフロアに進もうとした時にもう一度モネの絵を見たくなってさっと振り返った。しんとしたフロアの中でそのモネの絵の前だけに2-3人のひとが足を止めていた。「やっぱりそうなるよな」としみじみと思った。

テクノロジーが支えた「手段」の発展

シカゴ美術館の残りのフロアを回っている時も、そしてこれを書いている今も、そのモネの美しい絵はずーっとぼくの頭の中に引っかかっている。それは「この絵がとても好きだ」というシンプルな感慨を超えて、深く考えさせるものがあったからだと思う。

この絵のことを思う度にぼくは「才能」というものについて考えを巡らす。圧倒的な才能というものは文字通り「目を見張るものがある」。みんながポカンと口を開けてしまう何かがある。それは芸術の世界でもスポーツの世界でも変わらないだろう。才能というのは夜空に燦然と輝く星のようにありありとその存在感を示す。その輝きはあまりに煌びやかで見るものに有無を言わせない。

ここ30年ほどのテクノロジーの発展はあらゆるツールの民主化をもたらした。昔はテレビや新聞がマスメディアとしての機能を独占していた。今ではYou Tubeを使えば簡単に公の場所に動画をアップロードしてファンを増やすことができる。X (旧Twitter)やFacebookも多くの人に簡単にリーチする手段として機能している 。iPhone一つで映画も作れる時代になったし、幾らかのお金を払えばプロも使用する動画編集ソフトを誰もが使うことができるようになった。音楽でいえば、レコード会社に頼らなければ不可能だったレコーディングや音源販売も、Garage Band (ガレージバンド) やPro Toolsといった音楽編集ソフトを使えばハイクオリティーの音源を作れるようになったし、Spotifyなどのストリーミングサービスを使えば誰でもマスに対して音源を公開できるようになった。

本当に「伝え方が9割」か?

ただその一方で思うことがある。「手段の発展は才能を発揮することに役立ったか?」ということだ。平たく言えば、You TubeやSpotifyというツールを使うことでアーティストは多くの人に"実際に"リーチをして、その結果としての対価を以前よりも受け取れるようになったか。それは直接的な収入でもいいし、集客数などでもいい。

きっとそんなことはないんじゃないかと察する。細かくデータを見たわけではない。だけどYou Tubeチャンネルを開設した多くの人がなかなか再生数の伸びないことに頭を抱えているんじゃないか。アマチュアのミュージシャンもCDの代わりにSpotifyやApple Musicで配信したことでがっぽり儲かったかというと、そんな例は極めて稀なはずだ。

売れる人は売れるし、売れない人は売れない。

そんな毅然とした事実がここにはある。そしてその売れる・売れないを分つ大きな一つの条件は才能というものだと思う。

もちろん才能があったからと言って日の目を見ないことだってあるだろう。でもまず大衆の目や耳を惹きつける上で「才能がある」ということが一つの必須条件となっているのではないか。いろんな"大人の力"を使って才能がなくても一発当てるというケースはこれまでにも、そしてこれからもたくさんあることに疑いはない。とはいえ「キャリアを通して売れ続ける」、また「アーティストとして居続れる」という困難を乗り越えられるほど甘くはないものだろうと推察する。

この「手段」の発展の裏には多くの人の血と汗と涙があったことだろう。それに思いを馳せれば感動的でもあるし、そして何よりもユーザー視点で言えばこんな素晴らしい世界になったことは素直に喜ぶべきだろう。

ただツールが発展したことで、またそのツール上でいくら細かな表現を工夫しようとしたところで、本当に大きな差が生まれるのだろうか。You TubeやSpotifyがあることで本当に"食っていけるアーティスト"は増えたのだろうか。

それは分からない。ひょっとするとメディアがテレビや新聞から世代交代している、というだけなのかもしれない。斜に構えて言うならば。

「才能を磨くこと」をもう一度見直す

アクセス可能なツールを最大限利用することは大事だ。現代に生きるものにとってYou TubeやX (旧Twitter)を駆使して自らがマーケターになることは必然の工程となっているように見える。

ただそれをする前に「自分にある才能は何か?」をよくよく考えてみることは同じくらい大事だと思う

何で勝負したら数多ある音楽や絵の中から人に目を止めてもらえるだろうか。あのモネの絵の前に吸い込まれるようにして自然と人が足を止めていたように。

こんなことを言っているけれど、ぼくは才能が全然ない人間だ。ギターは小学生からやっているのにも関わらず全然うまくならないし、プログラミングも結構な時間を注いで頑張ったけれど全く身にならなかった。デッサンも先生がぼくが描いた絵を見て「?」となっていた様子が今でもありありと思い出せるし、グラフィックデザインの学校に通っていた時にはぼくが発表したイラストが手放しで褒められることなどついぞなかった。簡単に言えば才能がぜんぜんなかったのだ。

ただ、ぼくの場合は「人前に立ってみんなをリードしながらものを作る」ということにかけては勝負ができるものがあると思っている。それは時には多くの人前で恥を晒すようなこともあるし、サンドバック状態になって槍玉に上がることもある。ぼくがAmazon Japanの初売りをリードした時にAmazonのサイトを落としてしまった時なんかは(まあ色々あったんです…)火炙りの刑に処せられたかのようだった。思い出しただけで涙がこぼれ落ちそうだ。

それでも今、ぼくがAmazonの米国本社でグローバルなプロダクト開発をリードするぐらいにはやれるという小さな自信はある。もちろん今のところはという話でここから先はわからないけれど。

逆に言うと才能のない僕にはこれで一点突破するしかないんだなーとつくづく思うわけです。業を受け入れるみたいな感じですね。

紅葉がとても綺麗でした。

今日はそんなところですね。秋に訪れたニューヨークで公園を散歩しながら。

末筆ながらぼくは佐々木圭一さんが書かれた『伝え方が9割』という書籍を読んだことがありません。多くの反響を呼んだこの本に感銘を受けた方も数えきれないほどいらっしゃるだろうと思います。ぼくの意図はこの本を批判することではなくて、伝え方に重きを置くことについて一度考え直す、ということだけです。あしからず。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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