うめく。
自分の心をどうにかしたいと思っている時って、大抵心が病んでいる。そういう時って、いつも長い文章を書きたくなる。あと、人の心について色々調べてまとめようとする。ということは、今がまさにそういう時なんだろう。
旧約聖書のひとつに《エゼキエル書》というものがある。ここに登場するエゼキエルは、紀元前6世紀頃のユダヤ人で預言者。彼が神より得た言葉を48章にまとめ、構成された聖書がエゼキエル書とよばれている。
エゼキエル書 第24章に、『エゼキエルの妻の死』という物語がある。
この内容について、イギリスの画家、ウィリアム・ブレイク(1757–1827)は、1枚の絵画で表現した。
右のおじさんがエゼキエル。膝を抱えながら座り、静かに天を見上げている。その横のベッドで仰向けになっているのがエゼキエルの妻。亡くなった状態だ。その周囲では人々が嘆き悲しみ頭を抱えている。妻を亡くしたエゼキエルの表情はどうだろう。泣きもせず、ただじっと天を見上げている。悲しみも、嘆きも、怒りも、感情そのものがない。
エゼキエル書にはこう書かれている。
この状況は一般的に、人生で最も絶望と悲嘆に打ちひしがれるところだが、ここでは神は、悲しむな、泣くな、うめけ、など真逆な言葉を与えている。神に命じられたエゼキエルは、絵のような感じで呆然と天を見上げている。なぜ悲しんだり、泣いたりしてはいけないのか。なぜ人知れずうめくように伝えたのか。こういう逆説的な教えというのは、見方を変えることでより深い智慧を得ることもある。どうして感情を表してはいけないのだろう。
批評家で随筆家の若松英輔さんが、わかりやすく解説されていた。
概略して箇条書きで書いてみる。
そういえば僕も、同じように絶望と悲嘆に暮れていた時、泣いていなかったことを思い出した。もっといえばその時、泣く能力がなくなっていた。代わりに体中の血液がまるで逆流するような火照りと、全身で感じる動悸と、片頭痛に襲われていた。目の前の世界が、同じだけど同じではなくなった感覚。自分の体にも世界にも違和感を抱えたまま、時間がどんどん進んでいく。僕の心の中は、とてつもない恐怖と怒りと悲しみと、そのほか全てのネガティブで溢れかえっていた。だけど、それを表情や態度やことばで表すことはなかった。エゼキエルと同じ状況を、僕は意図せず再現していた。
極限の悲しみの底にいる人は、
泣くことを忘れる。
この状況においてさらに、僕はいつもの感じで飄々と淡々と人前で過ごしていた。いつもの僕で居るということはつまり、精神がぶっ壊れていることをさしていた。そんな僕を察した友人が今の僕の状況を優しく教えてくれた。でも当時の僕にはよくわからない。後日改めて友人と深く話をし、ようやく僕の状況が理解できた。それからようやく、人知れずうめく日々が始まった。
僕のうめきは実際の発声とは違っていて、いわば「声にならない声」「音がしない声」みたいなものだった。うめき声をまとっているような、そんな姿を人知れない場所で無意識に晒している。時々慟哭もあったけれど、今はほとんどない。うめいている時は悲しみの根源を断ち切りたくて、声に出して助けを求めようとしても、それは不可能だと気づく。求めては気づくことを体内で繰り返しているうちに、僕のうめきはやがて沈黙という形となっていった。それは悲しいことではない。生きることを続けるには、僕には沈黙が必要だった。
若松さんの言葉「泣いている人に手を差し伸べるだけじゃだめなんだ。」というメッセージは、「目に見えないものを見ることの大切さ」を教えてくれた。もちろん目にみえる物事も大切だが、見えないところからにじみ出る大切な何か。僕が経験したことが、見えないものを引き付ける感度となって、誰かへ手を差し伸べられることができればいいなと思う。隣で寄り添うことくらいしかできない僕だけど。
追伸。
今となっては、心が病んでいるから長文を書きたいのではなく、長文を書く為に心を病ませているような気がしてきた。この気づきは、割とポジティブに感じる。
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