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うめく。

自分の心をどうにかしたいと思っている時って、大抵心が病んでいる。そういう時って、いつも長い文章を書きたくなる。あと、人の心について色々調べてまとめようとする。ということは、今がまさにそういう時なんだろう。

旧約聖書のひとつに《エゼキエル書》というものがある。ここに登場するエゼキエルは、紀元前6世紀頃のユダヤ人で預言者。彼が神より得た言葉を48章にまとめ、構成された聖書がエゼキエル書とよばれている。

エゼキエル書 第24章に、『エゼキエルの妻の死』という物語がある。
この内容について、イギリスの画家、ウィリアム・ブレイク(1757–1827)は、1枚の絵画で表現した。

The Death of the Wife of the Biblical Prophet Ezekiel c.1785 William Blake

右のおじさんがエゼキエル。膝を抱えながら座り、静かに天を見上げている。その横のベッドで仰向けになっているのがエゼキエルの妻。亡くなった状態だ。その周囲では人々が嘆き悲しみ頭を抱えている。妻を亡くしたエゼキエルの表情はどうだろう。泣きもせず、ただじっと天を見上げている。悲しみも、嘆きも、怒りも、感情そのものがない。

エゼキエル書にはこう書かれている。

主の言葉が私に下り仰せになった。
「人の子よ。私はあなたの目の喜びを、
 一撃をもって奪い去る。
 悲しみに沈むな。泣いて涙を流すな。
 人知れずうめけ。
 死者の為に喪に服すな。
 ターバンを巻き、足には履き物を履け。
 口髭を覆わず、
 嘆きのパンを口にするな。」
朝、私は人々に語った。
その夕方、妻が死んだ。
翌朝、私は命じられた通りにした。

エゼキエル書 第24章『エゼキエルの妻の死』

この状況は一般的に、人生で最も絶望と悲嘆に打ちひしがれるところだが、ここでは神は、悲しむな、泣くな、うめけ、など真逆な言葉を与えている。神に命じられたエゼキエルは、絵のような感じで呆然と天を見上げている。なぜ悲しんだり、泣いたりしてはいけないのか。なぜ人知れずうめくように伝えたのか。こういう逆説的な教えというのは、見方を変えることでより深い智慧を得ることもある。どうして感情を表してはいけないのだろう。

批評家で随筆家の若松英輔さんが、わかりやすく解説されていた。
概略して箇条書きで書いてみる。

・悲しみの底にいる人は、泣いていない。
・私達は涙を流している人を見て、
 悲しんでいるとみる。→ でも違う。
・神は言う「お前は、泣かずにうめいたら、世にいる本当に悲しみ苦しんでいる人の姿が見えてくる。」
・本当に苦しんでいる人は、笑っている。笑うほかないのだ。
・笑わないと、今日を生き抜くことができない。
・泣いている人に手を差し伸べるだけじゃだめなんだ。
・泣いて涙を流すな。人知れずうめけ。

そういえば僕も、同じように絶望と悲嘆に暮れていた時、泣いていなかったことを思い出した。もっといえばその時、泣く能力がなくなっていた。代わりに体中の血液がまるで逆流するような火照りと、全身で感じる動悸と、片頭痛に襲われていた。目の前の世界が、同じだけど同じではなくなった感覚。自分の体にも世界にも違和感を抱えたまま、時間がどんどん進んでいく。僕の心の中は、とてつもない恐怖と怒りと悲しみと、そのほか全てのネガティブで溢れかえっていた。だけど、それを表情や態度やことばで表すことはなかった。エゼキエルと同じ状況を、僕は意図せず再現していた。

極限の悲しみの底にいる人は、
泣くことを忘れる。

この状況においてさらに、僕はいつもの感じで飄々と淡々と人前で過ごしていた。いつもの僕で居るということはつまり、精神がぶっ壊れていることをさしていた。そんな僕を察した友人が今の僕の状況を優しく教えてくれた。でも当時の僕にはよくわからない。後日改めて友人と深く話をし、ようやく僕の状況が理解できた。それからようやく、人知れずうめく日々が始まった。

う‐め・く【×呻く】
[動カ五(四)]《「う」は擬声語。「めく」は接尾語》
痛さや苦しさのあまり、低い声をもらす。
獣などが低くうなる。
嘆息する。ため息をつく。

僕のうめきは実際の発声とは違っていて、いわば「声にならない声」「音がしない声」みたいなものだった。うめき声をまとっているような、そんな姿を人知れない場所で無意識に晒している。時々慟哭もあったけれど、今はほとんどない。うめいている時は悲しみの根源を断ち切りたくて、声に出して助けを求めようとしても、それは不可能だと気づく。求めては気づくことを体内で繰り返しているうちに、僕のうめきはやがて沈黙という形となっていった。それは悲しいことではない。生きることを続けるには、僕には沈黙が必要だった。

若松さんの言葉「泣いている人に手を差し伸べるだけじゃだめなんだ。」というメッセージは、「目に見えないものを見ることの大切さ」を教えてくれた。もちろん目にみえる物事も大切だが、見えないところからにじみ出る大切な何か。僕が経験したことが、見えないものを引き付ける感度となって、誰かへ手を差し伸べられることができればいいなと思う。隣で寄り添うことくらいしかできない僕だけど。


追伸。
今となっては、心が病んでいるから長文を書きたいのではなく、長文を書く為に心を病ませているような気がしてきた。この気づきは、割とポジティブに感じる。

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