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安部公房『砂の女』を読む:「社会化」による人間の思考と行動の変化

私の推しメン、新居歩美さんが好きな作家・安部公房。彼女が安部公房を読むのであれば、私もきちんと読んでいかなければならないのだが、やはり公房作品はどれも難解で、作品の主題・本質をきちんと理解するには時間がかかるだろう。

まずは代表作から読み始め、徐々に公房の作品論全体を考えていけたら良いと思う。

※本稿で扱う『砂の女』は、1981年に新潮社から刊行された文庫版(2003年改版)を参考にしている。

安部公房の作品

安部公房(1924~1993)は、戦後に活躍した前衛作家の1人である。「「表現の過程」そのものに「極端な排除と集中」を加える本質を追求する」作家と説明される。(後藤綾「安部公房研究―〈物〉と〈人〉の本質をめぐって―」『日本文学ノート』(宮城学院女子大学日本文学会、2013年)、69頁)

「不条理」と「不合理」を生々しく抉り出す公房作品をどのように読んでいくか、頭を抱える問題である。個人的には、いずれの作品もあらすじを理解するだけで終わる可能性が高い作家の1人でもある。

今回は、公房作品の中で最も知名度の高い(と思われる)『砂の女』を読んでいきたい。『砂の女』は1962年に刊行された書き下ろし長編小説であり、海外における評判も非常に高く、今日では「20世紀文学の古典」と目されているほどである。(ドナルド・キーン「解説」『砂の女』、269頁)

公房の生い立ちに即して作品を位置づけた場合、『砂の女』は「砂を掻き続ける労働しかない中で与えられた、女を抱くという人間の存在象徴的姿や安部公房が自分自身を抑圧する砂という存在の本質を描くことで社会主義や共産主義を批判した作品」と説明される。(「安部公房研究―〈物〉と〈人〉の本質をめぐって―」、70頁)

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『砂の女』

あまりにも有名な作品であるため、あらすじを事細かに説明するのは控えたい。とはいえ、結末までの主人公の内面の変化を理解しなければnoteを書くことができないので、流れだけ簡単に押さえておこう。

この話の主人公は、31歳の仁木順平という男である。作中では「男」と表記される。教師をしている仁木は、休暇を利用して趣味の昆虫採集に出かけた。物語の冒頭では、次のように記述される。

八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。
                          (『砂の女』、5頁)

S駅からバスに乗り、終点まで辿り着いた男は、村と松林を抜けた先の海岸の砂丘で昆虫を採集しようとする。そして男は、その砂丘に突如現れた、砂に埋もれ今にも崩れ落ちそうになった奇妙な部落と遭遇する。最終のバスを逃し、身動きが取れなくなった男は、その部落に住む老人の勧めに従い、部落の中で一番外側にあり、最も深い穴の底の民家に泊まることになった。

民家には「三十前後の、いかにも人が好きそうな小柄の女」(『砂の女』、27頁)が一人で生活しており、男は女の世話になる。しかし、翌日には地上に上がるための縄梯子が外されており、1日経っても2日経っても男は民家から出られなかった。

砂を毎日穴から運び出さなければ穴は崩落し、部落の生死に直結する。その部落は、砂を毎日掻き部落を存続させる人手を欲していたのであり、男はその事に後ほど気づきながらも女との共同生活を続けていくことになる。

翌年、女は妊娠し、子宮外妊娠のため村人に運び出されて病院へと送られた。女を運び出す際に掛けられた縄梯子は搬送後も残っていたが、男はその縄梯子で地上を眺めはしたものの、脱走はせず、穴にとどまる選択をした。

7年後、消息が不明の「男」は家庭裁判所より失踪者として認定を受けた。

物語はここで終わる。

「男」は何故砂の穴から逃げ出さなかったのか?

『砂の女』で最も問われる部分はおそらくここであろう。何故最後の場面で、男は縄梯子を登り地上に出たにも関わらず、脱走せず、溜水装置のことを第一に気にかけ穴の中へ戻っていったのか。男は物語の最後でこう呟く。

 べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
 逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
             (『砂の女』、266頁、強調はひよこによるもの)

推察するに、この男は砂の穴での生活に慣れてしまったのである。物語の冒頭、男は自身の社会的境遇・立場を常に自覚し、あくまで「休暇」中に遠出をしたに過ぎないと何度も口にしていた。「ちゃんとした戸籍をもち、職業につき、税金もおさめていれば、医療保険証も持っている」(『砂の女』、59頁)ということを部落の人間に声を荒らげながら伝えていた。それは、「常軌を逸した出来事」、すなわち「砂の穴」に「部落の人間」が理由を説明することなく自身を閉じ込めたからであった。

しかし、1年以上の「穴の生活」を経て、男は「毎日砂を運び出し、溜水装置を観察する」生活を当たり前のものとして捉え、そのような生活に違和感を感じることなく「逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである」(『砂の女』、266頁)という思考を形成するに至ったのである。

男が「砂の穴の生活」に適応したこの事例を、「社会化」(Socialization)という側面から検討してみるとどのように映るであろうか。「社会化」とは、社会学や心理学等の学問分野で用いられる概念である。ある人間が、特定の「社会」(ここでの「社会」とはあらゆる社会集団を指す)に新たに加わる時、その「社会」の規範や価値観、思考様式・行動様式を環境に適応しながら習得していくことを指す。人が各々持っている「常識」や「偏見」といったものも、つまるところ全て「社会化」の結果身につけたものと言える。

社会学における「社会化」の概念は、古典的なところでデュルケムやジンメルによって提唱されてきたが、『砂の女』において特に注目したいのは、形式社会学における「人と人の関係性」に他ならない。この「人と人の関係性」というのは、自分を中心としてその「社会」で規定される人間関係である。

物語序盤、男は部落の人間に何からの意図で「使用されている」ことに苛立ちを隠せなかった。穴の砂を毎日運び出さなければ部落の存続に関わるため、その人手として与えられた労働をこなさなければならないという事実を受け止めきれなかった。自身に期待された役割を認識する前も認識した後も、基本的に男は部落の人間に「抵抗」する形で「監禁」の違法性を何度も指摘した。ところが、物語の中盤から後半にかけて、男が脱走を試みて失敗し、部落の人間に命を救われた頃から、部落の人間が人手を欲していた事実、そして砂を運び出さなければ村の存続に直結する現実を男が認め、ある種それを受け入れながら生活し続けるように変化していく。

穴の中の「男」と「女」の関係性にも、日本の伝統的な封建制に基づく家族観、家父長的な「男」―それを支える「妻」の姿が投影されており、部落全体としても、部落の人間―使われる「男」という構図が描かれている。その関係性と「空気感」を男は次第に読み取り、自身に課せられた運命に従うのである。その結果、冒頭では「出なければならない穴」だったにも関わらず、そこの住人として適応してしまい、脱走の意欲すらなくしてしまったのである。

『砂の女』を読むと、最後の部分で「男はなぜ逃げないんだ...」と疑問に思う。それは至極まっとうな感想である。あれほど望んでいた「事実」―縄梯子がかけられた―が目の前に出現したにも関わらず、「逃げるてだて」はまた考えればよいと溢してしまうからであった。

だが、この結末を「社会化」という側面から眺める時、我々はそこまで強く「男」の変化を疑問に思い、責めることが出来得るであろうか?

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「社会」の中で生きる

今日の日本では、多くの人がまず「小学校」という「社会」に所属し、義務教育を受けることとなる。小学校の中にも「◯年◯組」という「社会」が多数存在し、「社会」(学年・クラス)ごとに異なるルール・規範が設定されている。クラスや学年、学校全体の「社会」を覆うのは、その地域全体の「社会」であり、「学校システム」の総合的な整備に関わる意思決定はこの「社会」で行なわれる。中学校、高校、大学も同様である。そしてその後は、地域の枠組みを超え、直接日本国の憲法や法律が作用する「社会」が出現するようになってくる。「学校」という「社会」で見られた「教師」―「生徒」という構図は、労働に従事するようになった「会社」のような「社会」においては、「雇用主」「上司」―「従業員」「部下」といった構図に置き換えられて展開される。法律の枠の中でその「社会」独自の規範・価値観を後天的に習得し、人は生きていく。

人は自身で思う以上に、「社会」や「環境」にかなりの影響を受けて生きているのかもしれない。逆の言い方をすれば、それだけ人は適応能力が高いとも言えるが、半年や1年という一定の時間があれば、人は容易に変わり得るのだということを再認識させられる。

公房作品に特徴的な「不条理」「不合理」という側面を、この『砂の女』において見出すならば、おそらく「社会化」という点に着地するだろう。

「男」は「砂を毎日運び出さなければ生活が崩壊する」という部落に「参入」してきた人であった。その部落の中で、「男」は「部落」の人間に使われながら、「女」との共同生活を営み、次第にその部落の「規範」を飲み込み、順応していった。男の思考の如何に関わらず、部落の生活は目の前で毎日展開されていく。男の意思によって、部落の生活は左右されない。この部落にやり方はともあれ加わった以上、男はこの部落の「規律」に従って生きていかなければならなかった。

否応なしに連続して突きつけられる生々しい比喩の嵐に、思わず息を呑んでしまいそうになるが、それ以上にこの『砂の女』は我々が普段の生活の中で直面する問題を語りかけているように感じる。人の思考様式や行動様式は、教育によるもの、そして自身が属する「社会」によって養われ、育まれ、そして規定されていく。

自身が特定の「社会」に属する中で、自己を常に客観的に眺めながら生きていくことは容易ではないかもしれない。とはいえ、今持ち合わせている「常識」や価値観を絶えず批判的に検討していきながら歩んでいくことは、同時に今属している「社会」の特質を考えるきっかけにもなり得るはずだろう。

「男」を軸に「社会化」から『砂の女』を読み直してみるのも面白いかもしれない。

(終)

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