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『サリエーリ 生涯と作品』 「推し活」から古典音楽へ サリエーリに憧れた人々と復刊

音楽史の研究書として出版された本が、十数年という時を経て、若い世代を中心に注目を集めることになるとは、誰が想像できたでしょうか。

2003年に音楽之友社から出版された『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』は、モーツァルトと同じ時代を生きた宮廷音楽家アントーニオ・サリエーリの生涯と作品を解説した本。同書は2019年、思いも寄らない方向から脚光を浴びたことで復刊され、初版当時を圧倒的に凌ぐ勢いで多くの読者に届けられることになりました。

同書の人気を支えたのは、従来の古典音楽の愛好家、そして、サリエーリという人物を「推す」若いファンの存在でした。本記事では、「推し活」と古典音楽という異色の取り合わせが生んだ復刊、そして新たな文化的広がりの軌跡をたどります。

2019年に復刊した『サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長』

<作品紹介>
18世紀、北イタリアのレニャーゴで生まれたサリエーリ。14歳で孤児になるも、その類稀なる才能からウィーン音楽界で活躍し、宮廷楽長にまでのぼりつめます。本書で語られるのは、派手ではないけれど実直に生きたサリエーリの生き様。モーツァルトと比べられ、長らく不遇の扱いを受けてきたサリエーリですが、本当の姿は、ベートーヴェン、シューベルト、リストなど多くの逸材を育てた大作曲家でした。生涯で作曲した数々の音楽についても余さず解説されているほか、「サリエーリ全作品目録」「サリエーリ年譜」「ディスコグラフィ」などを収録し、研究書としての資料性も高い一冊です。第27回マルコ・ポーロ賞受賞作品。

サリエーリへの関心の高まり

サリエーリといえば、これまで多くの人は、その存在を知らないか、映画や舞台の『アマデウス』で描かれた、「モーツァルトの才能に嫉妬し、死に至らしめた凡庸な音楽家」というイメージを抱いてきました。実際にはそのような事実はなく、才能に溢れた人物であったにもかかわらず、近年まで評価されてこなかったのは、ひとえにサリエーリへの関心の低さによるものだったといいます。『サリエーリ』の著者・水谷彰良先生によれば、同書を執筆した当時、サリエーリの伝記は世界中でわずか3、4点しかなかったのだそう。同書も、日本語で読める唯一のサリエーリの伝記でありながら、やがて絶版となってしまったのは、サリエーリの存在がほとんど知られていなかったことが理由の一つだったかもしれません。

しかし、日本におけるサリエーリの知名度はある時期から爆発的に高まることになりました。人気スマホゲーム『Fate/GrandOrder』(以下FGO)に、復讐者アントニオ・サリエリとして登場し、そこで描かれた端正な顔立ち、陰のある雰囲気が多くのファンを魅了したのです。

「サリエリ推し」となったファンは、実在の人物としてのサリエーリにも関心を持つようになりました。サリエーリの楽曲を収録したCDが飛ぶように売れ始め、図書館に所蔵された水谷先生の『サリエーリ』には予約が殺到。復刊ドットコムには、同書の復刊を望む声が続々と集まるようになったのです。

『サリエーリ』の復刊

『サリエーリ』の復刊が正式に発表された頃、復刊リクエストの数は1000票にも膨れ上がっていました。同時に寄せられたコメントも、復刊を望む切なる気持ちが滲むものばかりで、それを読んだ著者の水谷彰良先生はその熱意に感動したといいます。

「キャラクターに対する愛情とか、みなさんの気持ちがすごく伝わってきて、これは大変なことになったと思いましたね。単に研究書として復刊するのではなく、誰が読んでも、サリエーリが素晴らしい人だったと感じてくれるような本にしたいと思いました。」

しかし、研究書に位置付けられる本書を復刊するにあたっては、2003年の初版当時の内容をそのままとすることは難しいというのが水谷先生の見解でした。十数年の間に研究が進み、参考文献や資料などの数も格段に増えていたからです。そこで、復刊版では、旧版の内容を引き継ぎながらも、大幅な増補改訂が加えられることになり、装いも新たな「新版」として出版されることが決まりました。

(左)2003年刊の旧版(音楽之友社)、(右)2019年刊の新版(復刊ドットコム)

さて、この復刊が『FGO』からサリエーリに関心を持った人々に少なからず支えられていたことから、新版では従来の読者層だけでなく、比較的若く、古典音楽に初めて触れるような層でも読みやすく、親しみを感じられるような工夫も施されました。「サリエリ推し」の読者の関心が最も高いであろう、サリエーリの人物像に関する逸話などが加筆され、文体もより平易で簡潔なものへと書き換えられたのです。装丁についても、旧版と比べると華やかなデザインとなり、編集者は「内容の重厚感を表現しつつも、手に取りやすい」というバランスを意識していたといいます。

かくして編集された新版『サリエーリ』は、サリエーリの研究書としての確固たる資料性を持ちながらも、純粋な好奇心を満たす伝記的な側面を併せ持つ稀有な作品となりました。水谷先生自身も、「読者ごとに異なる関心に即して細部や注記を読み飛ばしてお読みいただければ、…」(P.345 あとがき より引用)と言うように、幅広い読者層が満足できるよう、配慮されているのです。

これだけの大がかりな増補改訂に必要な期間として、水谷先生が当初見積もっていたのは約2年だったといいます。特に十数年分の研究を組み込んでいくというのは、非常に骨の折れる作業だからです。しかし、出版の時宜を得るため、そしてなにより復刊を待つ多くの人のためにも、2年という期間は長すぎました。結局、他の仕事を抱えながらも、何より優先して執筆に取りかかり、原稿の完成までにかかった時間はわずか3ヶ月。『サリエーリ』が読者の手元に届けられたのは、正式な復刊の発表から半年後のことでした。

「推し活」から始まる文化への“旅”

『サリエーリ』の復刊を通して、著者の水谷彰良先生は、若い人たちの持つ、文化を支える力を実感したといいます。同書に刺激を受けた人々が、サリエーリをきっかけにそれぞれの興味や関心を深め、さまざまな方向で活動の広がりを見せ始めたのです。

サリエーリや関係のある音楽家にまつわるイベントを開催したり、情報発信をしたりする人、ウィーンの音楽の研究を始める人、ウィーンの料理を再現する人、“聖地”を巡る旅に出る人……。「推し」への情熱は、文化に触れ、教養や人生そのものを広げていく出発点であり、原動力になり得るものでした。

話を聞けば、実は水谷先生がサリエーリの研究をするようになったのも、自身が好きだと思うことを突き詰めていった結果だったそうです。水谷先生にとっての出発点は、音楽、そして純粋な楽しみとしての学問でした。幼い頃から“バロック音楽オタク”だったという水谷先生は、学生の頃は政治や哲学、フランス文学に関心を持ちながらも、仕事は音楽関係の職を選び、20代半ば頃にはオペラ作曲家・ロッシーニを一生の研究テーマとして定めました。その頃は、水谷先生にとって研究はあくまで一生の“遊び”であり、それで生計を立てようというつもりはなかったといいます。そして、ロッシーニや関連する音楽家の研究を深めていくうちに、やがてたどり着いたのが、研究対象としてはほとんど手付かずだったサリエーリ。何かに没頭するうちに、初めは考えもしなかった場所へとたどり着いたという点では、水谷先生も、『FGO』から古典音楽へと導かれた「サリエリ推し」の人々も、根底には似通ったものがあると言えるかもしれません。

最後に、水谷先生にとってのサリエーリの魅力を聞くと「読者の方が、サリエーリが好きなんじゃないかな」と笑いながらも次のように語りました。

「天才として後世に名を残すのも1つの生き方なんだけれども、傑作を生むだけじゃなく、 真面目に、誠実に生きることで人生が素晴らしいものになるということも大事だと思っています。サリエーリは、芸術や社会のために一生涯奉仕するんだ、というはっきりとした考えを持っていた人。僕にとってのサリエーリの最大の価値はそこにあります。そういうことは素晴らしいことなんだということを、僕はこの本を通じて若い人に感じて欲しいなと思っています。」

2025年には、サリエーリの没後200年を迎えます。こうした節目に向けて研究が加速し、研究発表の場が設けられるのが研究の世界の常。サリエーリという人物の功績は今、古典音楽以外の世界でも思わぬ広がりを見せながら、次の世代へと受け継がれようとしています。


■取材・文
Akari Miyama

元復刊ドットコム社員で、現在はフリーランスとして、社会の〈奥行き〉を〈奥ゆかしく〉伝えることをミッションとし、執筆・企画の両面から活動しています。いつか自分の言葉を本に乗せ、誰かの一生に寄り添う本を次の世代に送り出すことが夢。
https://okuyuki.info/

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