さらば恋人(白木 朋子)
通話を終えてヘッドセットを首に下ろした。
窓の外、明治通りに薄い闇が広がっている。
マスクを顎まで下ろし、渇ききった喉を潤す。
待機中のコール数を確認する。
受付終了の20時まであと45分。
2m離れたデスクの同僚はマスク越しでも分かる完璧な笑顔と笑声(えごえ)でルーター故障の電話に応じていた。
去年の3月、コールセンターのスタッフは4分の1に減った。
宣言直前の突然の派遣切りだった。
正社員のマネージャーに頼まれ、私は宣言が解除されるまで週2回勤務を続けることを了承した。
多くの同僚を見送り、私は残った。
入社当時私の指導係だった先輩は、
「遥ちゃんなら1人で5人分は取れるから安心だよ」
と笑い、ヘッドセットを消毒して去って行った。
5月に宣言が明け、シフトは週3回になり、秋には5回に戻った。
通話を終える度に喉が渇いてたまらなくなった。
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その声は突然現れた。
最後の患者に薬を渡し、看板のライトを消した。
閉店作業をして、手洗いうがいを念入りに行う。
川べりの住宅地に立つこの調剤薬局には、5人の薬剤師が勤務している。
4人が主婦で私以外はそれぞれ子どもが2人、もう1人は大学を出たばかりの新人の男の子。
私の他は皆んなこの街で生まれ育った生粋の
京都人だ。
東京の薬科大学を卒業して同級生と結婚した。
製薬会社に勤める夫の転勤で京都へ来た。
去年の宣言以来、1日の処方箋の数はそれまでの半分近くに減った。
薬剤師は患者に直接触れることがないから感染リスクは低いと私は思っている。
入口の検温機。レジのビニールシート。
こまめな消毒。消毒に次ぐ消毒。
店の鍵を閉め、川沿いに自転車を漕ぐ。
この道を通るのもあと何回だろうと考える。
ダンボール箱が積まれたリビングへ入ると、
先に帰宅していた夫が引越しの荷造りを進めていた。
夫の東京赴任が決まり、私たちは間もなくこの街を去る。
携帯にネット解約の手続きについて留守電が入っていたことを思い出し、履歴の番号を押す。
少しして、「大変お待たせいたしました」と女性のオペレーターに繋がった。
その声を、私は知っていた。
今と同じ桜の季節だった。
ホームに響く発車ベルと驚いた彼女の顔。
制服のスカーフが風に揺れていた。
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担任教師の贈る言葉が終わり、私は席を立った。
同級生たちは泣いたり笑ったり、たれぱんだのサイン帳を交換したりして別れを惜しんでいた。
廊下へ出る時、吉川貴子たちが「今日カラオケ行く人ー!」とはしゃいでいる声が聞こえた。
理科室は窓もカーテンも締め切られていた。
薬品と水槽とインコの花子の混ざった匂い。
窓を開け放し、金魚に餌をあげて花子と少しおしゃべりをした。
花子はこの学校で唯一私を「桃子」と呼ぶ。
いつもひとりでいる静かな藤田さん、ではない私を花子は知っている。
ビーカーの棚からいつものお気に入りを取って、窓際の席に座った。
鞄から缶ビールを出して勢いよく注ぐ。
ビーカーから泡が溢れ出した。
慌てて口を付けようとして、制服のスカーフがビールについた。
雫がスカートに垂れたが気にせず飲む。
少しぬるい。でもおいしい。
この場所でこうして飲むのも今日で最後だ。
記念品の紅白まんじゅうの箱を開け、ピンク色を一口頬張る。そして飲む。
おまんじゅうとビールって結構合うなと思う。
花子が何やら話しかけてくるけれど早口すぎて聞き取れない。
窓から吹いてくる春風が気持ちいい。
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卒業式の後、校門の前で家族写真を撮った。
「主役は遥なんだから」とお父さんは言ったけど、私は泰晴とお母さんの後ろに立った。
卒業証書の表紙は真っ赤なビロード地で、撫でるとふわふわして気持ちがよかった。
小学2年生の泰晴は蝶ネクタイと七三分けでバッチリきめて、貴子たちから可愛い可愛いと言われて得意そうに笑っていた。
それから教室で皆んなと写真を撮って、春休みに遊園地へ行く約束をして別れた。
貴子たちに渋谷でカラオケしてこうって誘われたけど、私はごめんって断った。
お祝いの日は家でお母さんのとんかつを食べるって決めている。
一人になって、放送室へ向かった。
3年間在籍した我が放送部のホーム。
私は家から持ち込んでいたCDの山をタワレコの袋に詰めていった。
放送部では選曲を担当した。
昼休みの校内放送や、体育祭とか文化祭のBGMを考えたりした。
アナウンスは緊張するから得意な子におまかせ。
好きな音楽を自由に流せるのは楽しかったけど、他の生徒が楽しんでいたかは分からない。
部員たちは「植村さんの選曲は独特で面白い」って褒めてくれたけど、一度昼休みをまるまる使って志ん朝の「明烏」を流した時は、翌日の教員会議の議題に挙がるまでの騒動になって、部員の皆んなにもずいぶんと迷惑をかけた。
私物のCDを全て引き上げて放送室を出た。
廊下を歩いていると、理科室から同じクラスの藤田さんが出てくるのが見えた。
藤田さんは両手に大きな荷物を持っていた。
○校舎・廊下
少し離れて向かい合う遥と桃子。
遥「藤田さん?」
桃子「……植村さん」
遥「どうしたの、その荷物」
桃子「ああ、部活で育ててた鉢植え」
遥「鉢植え。持って帰るの?」
桃子「うん。植村さんは?」
遥「私も部室の荷物取ってた」
桃子「放送室」
遥「え、私が放送部だって知ってるの?」
桃子「うん」
遥「なんで?」
桃子「えっ、知ってるでしょ普通」
遥「私アナウンスしないし、地味部員だよ」
桃子「(小声)そんなことないと思うけど」
遥「え?」
桃子「いや、なんでもない。あっ、カラオケは?」
遥「カラオケ?」
桃子「行かないの?」
遥「え?」
桃子「さっき吉川さんが言ってた」
遥「ああ。誘われたけど私はパスしちゃった」
桃子「嫌いなの? カラオケ」
遥「そうじゃないけど、貴子たちはまた会えるし」
桃子「そっか。……あ、じゃあ」
遥「ばいばい藤田さん。元気でね」
桃子、鉢植えを重たそうに持って歩いていく。
その後ろ姿を見て、
遥「ねえ!」
振り返る桃子。
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こんな日が来るなんて。
わたし、植村さんと並んで駅まで歩いてる。
何を話せばいいんだろう。
訊きたいこと、
話したいこと、
いっぱいあったはずなのに。
どうしよう。
ことばがひとつもでてこない。
○通学路
歩いている遥と桃子。
遥、桃子の植木鉢の袋を1つ持っている。
遥「藤田さんて理科部だったんだ」
桃子「うん」
遥「でもこんな大きい植木二つも押し付けるっ
て他の子たちひどくない?」
桃子「いいよ。育てるの嫌いじゃないし」
遥「そっか」
桃子「皆んな花よりウサギが可愛いくてうちに
入った人たちだから」
遥「えっ、うちの学校ウサギなんていた?」
桃子「1年の2学期まではいたよ」
遥「へえ」
桃子「ベタベタ触られてストレスだったのかな。
夏休みに入る前から変な声で鳴き出して」
遥「え……」
桃子「どんどん毛が抜けて、食べなくなって」
遥「ごめん、もうやめようこの話!」
桃子「あっ大丈夫。そのあと顧問の先生が引き取
ってくれて、今は元気にしてる。毛も生えた」
遥「そっか……よかった〜」
笑う遥。
遥「藤田さんて意外とおしゃべりなんだね」
桃子「おしゃべりではないけど」
遥「面白いね」
桃子、照れて笑う。
遥、街路樹の桜を見る。
遥「あっ、まだ咲いてる!」
桃子「ほんとだ」
遥「こないだ雨だったから」
桃子「うん」
遥「卒業式はもう散ってるかなって思ってた」
桃子「うん」
遥「藤田さんも?」
頷く桃子。
遥「同じこと考えてたんだ」
二人、桜を見る。
遥「つよいんだね、桜って」
桃子、遥の横顔を見つめる。
後ろから自転車が走ってきて、
桃子にぶつかりそうになる。
遥「あっ!」
遥、咄嗟に桃子の肩を抱き寄せる。
驚く桃子。
遥「危なかった〜」
桃子、固まっている。
遥「藤田さん? 大丈夫?」
桃子、遥からパッと離れて足早に歩いていく。
不思議そうに桃子を見る遥。
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藤田さんとは今年初めて同じクラスになった。
でも藤田さんは理系で私は文系だったから同じ授業もあんまりないしちゃんと話したこともあったかどうか。
急に触ったりして、いやだったかな。
そもそも一人で帰りたかったのかも。
なんか悪いことしちゃったなあ。
○電車
並んで座っている遥と桃子。
アナウンスが次の降車駅を告げる。
遥「じゃあわたし次だから」
立ち上がる遥。
桃子「鉢植え、持ってくれてありがとう」
遥「ううん、同じ帰り道だし」
桃子、遥から鉢の袋を受け取る。
遥「じゃあね。藤田さん」
電車がホームに入る。
ドアへ進む遥。
電車が止まり、ドアが開く。
ホームに降りる遥。
車内の桃子、立ち上がり、
桃子「あの!」
振り返る遥。
桃子「この間の最後の大掃除の日」
遥「大掃除?」
桃子「校内放送の音楽、植村さんだよね」
遥「うん。えっ、なんで……」
桃子「また逢う日まで」
遥「……」
桃子「勝手にしやがれ、さよならの向こう側、翳
りゆく部屋」
発車ベルが鳴る。
桃子の声がどんどん大きくなる。
桃子「喝采、ひこうき雲、ルーム・ライト、微笑
がえし!」
遥「……」
ベルが止む。
桃子「さらば恋人」
ドアが閉まる。
見つめ合う二人。
遥のスカーフが風に揺れる。
電車が動き出し、互いが見えなくなっていく。
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初めて植村さんと話したのは3年生になって
すぐの体育の時間だった。
グラウンドでソフトボールの班決めをしていると、誰かが私の髪に触れた。
振り向くと、その子は手のひらにうす紅の桜の花びらを乗せていた。
「ついてたよ。ほら!」
風が吹いて、花びらはその子の手から飛んでいった。
「髪、まっすぐできれいだね」
その子はもう一度私の髪に手を伸ばして、今度は手の甲で少し撫でるように触れた。
彼女の手首からほのかに花のような香りがした。
私は咄嗟に俯いた。
彼女は班の友だちに呼ばれ、駆けていった。
それから毎日彼女を目で追いかけた。
目が合いそうになると慌てて逸らした。
英語の時間に彼女が音読をすると、心臓が高鳴って身体が燃やされているみたいに熱くなった。
昼休みに彼女が教室にいない日は放送室へ走った。
ドアの小窓からブースに座る彼女の姿を確認して、急いで理科室へ向かった。
話しかけてくる花子にシーッと指を立てて、
スピーカーに全神経を集中させた。
彼女の声が好きだった。
選ぶ音楽が好きだった。
話しかけてみたかった。
名前を呼んでみたかった。
私を呼んでほしかった。
けれどひとつも叶わなかった。
卒業式のその日まで。
それが植村遥だった。
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ボトルの水を飲んで、ヘッドセットを戻した。
赤く点滅する受話ボタンを押す。
19時50分。今日最後のコールを取った。
「大変お待たせいたしました。ハルカゼネットお客様センター植村がお受けいたします」
一瞬の間の後、時間ぎりぎりにすみません、とその女性は控えめに言った。
引越しのため回線を解約するお客様だった。
停止日や費用について確認し、他にご不明な点などありませんか、と尋ねると、
「少しだけいいですか?」と女性は言った。
「お伺いいたします」と私は答えた。
「東京は今、桜咲いてますか」
待機中のコール数の表示が0になった。
時計は20時を指していた。
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はい。染井吉野は満開近くまで咲いております
そこから桜、見えますか
あいにく今は見えませんが、コールセンター
の下の通りはきれいに咲いております
私の家はベランダから桜が見えるんですよ
素敵ですね
京都の鴨川の近くなんです
きっと素晴らしい眺めでしょうね
ええ。引っ越すのが惜しいです
東京の桜もぜひお楽しみください
それまで咲いてくれてるといいんですけど
大丈夫です。桜って意外とつよいですから
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○通学路
卒業式の日の遥と桃子。
遥「つよいんだね、桜って」
桃子、遥を見つめる。
長いまつ毛、鼻筋、唇、顎、首。
自転車が走ってくる。
遥「あっ!」
遥、桃子を抱き寄せる。
驚いている桃子。
すぐ近くに遥の顔がある。
遥「藤田さん、大丈夫?」
桃子、遥の頬にキスをする。
という想像をする。
が、すぐに遥から離れ、足早に歩いていく。
その顔に校内放送が重なる。
○教室
ジャージに三角巾姿の生徒たち。
椅子を机に上げ、教室の後ろに下げている。
その中にいる桃子。
校内放送のチャイムが鳴る。
放送部員(声)「おはようございます。
今年度最後の大掃除の時間です。
生徒の皆さんは担当教室の清掃を開始してください」
桃子、箒で床を掃いていく。
スピーカーから音楽が流れる。
手を止める桃子、スピーカーを見つめる。
同級生の話し声や教室の喧騒が消えていく。
○放送室
放送中の音楽が流れている。
部員たちとブース内を掃除している遥。
○教室
音楽が続く。
スピーカーを見つめている桃子。
生徒たちが黒板の時間割表を剥がしていく。
窓から大きな風が吹く。
目を閉じる桃子。
その髪に桜の花びらが乗る。
音楽、盛り上がって。
(終)
*しらき ともこ
最近世にもおいしいスコーンを食べました。
落ちた頬がいまだ戻ってきません。